一神教・超越神の批判的解体

[叡智学] メディア界の連続同一化と超越的自我化

この問題も、一つの急所である。差異の連続同一化という事態と超越的自我化(超越神化)とがどう結びつくのかという問題である。そのままストレートにはつながらないだろう。また、言語分節化の問題もある。箇条書きにして整理しよう。

1.差異の連続同一化(=原分節化)
2.超越的自我化(=言語分節?)
3.原分節と言語分節と現象化

1.であるが、たとえば、差異1と差異2が連結して、現象Aを形成すると考えられる。また、差異すべてが連結すれば、統一化であり、原一神教性が生じるだろう。つまり、この時点では、超越的ではない。思うに、ギリシア神話のゼウスがこのような神ではないか。自然とは未分化である。また、日本の神も、同様な面があろう。(ただし、日本の神は、イデア界性がギリシア神話よりも強いと思う。明確な神というよりは、漠然とした、プラトンのコーラのような、融通無碍な神だろう。この相違は重要である。)
 では、原分節化とは現象化ではないか。そうだろう。カントは先験的形式と言ったが、それは、主観的形式である。しかし、差異の連続同一化を考えると、客観的であり、また主観的であろう。いわば、物自体の原分節性と主体の原分節性が生じるのだろう。この接点に真の先験的形式があるのではないだろうか。だから、先験的分節化ないし超越論的分節化である。

2.であるが、この事態は父権制を意味する。古代のさまざまな父権神話がほぼこれに近いことを表象していよう。しかし、とりわけ、西洋神話である。旧約聖書である。1.で、原一神教性を見たが、それは自然を超越していない。自然と併存している。つまり、メディア界ないし現象界に留まっていると言える。では、超越神や超越的自我はどこから出現するのか。「我在りて、在り余れる」というヤハウェは、どこから来たのか。差異連続体という現象において苦が生じる。この苦からの脱却として、擬制・幻想としての神、それも自然を超越する神を表象する。つまり、現象=自然は、苦をもたらすのであり、いわば邪悪、悪、悪魔としての現象=自然である。(聖書は自然を悪魔視している。思うに、砂漠地帯では、このような自然を邪悪視するのは、ある意味で正しいだろう。日本のような照葉樹林帯ではないのだ。恵まれた自然ではないのだ。)思うに、ここが、一神教多神教との分水嶺だろう。後者はあくまでも、自然の神に祈る、信じるだろう。しかし、前者は、自然を邪悪視して、自然を超える神を希求する。砂漠での生存をイメージすればいいだろう。地=自然は人間に意地悪である、豊かな食物を恵まないのである。飢餓、飢渇、渇望が生じる。地=自然を否定した神が望まれる。つまり、天の神である。(一般に太陽神が信仰されるが、イスラーム教は月である。それは夜の月こそ、住みやすさ、動植物の生長をもたらすということではないだろうか。)天空の神である。天空の超越神である。この超越性とは、メディア界=水平線の超越・否定である。しかし、思うに、完全にメディア界を否定はしていないだろう。メディア界の連続同一化である現象の超越・否定・棄却である。しかし、他面のイデア極、イデア界的側面が残っているだろう。だから、イデア界的強度が、超越化にはあるのではないか。つまり、こういうことではないか。メディア界=水平線のゆらぎは元よりある。しかし、連続同一化=現象界化を超越・否定する。この否定は、連続同一化=現象界の苦に発している。しかし、単に、現象界の苦のみならば、盗んだり、略奪すれば済むことであり、超越化は不要である。だから、思うに、超越化においても、メディア界が関与しているのである。やはり、超越宗教においても、メディア界=水平線を基軸にしているのであり、イデア極と現象極の両極をもつ。そして、現象極を否定・超越するのであるが、この否定・超越の契機は単に現象極の苦だけではなく、対極のイデア極も関与していると考えられるのである。つまり、イデア極性の強度がいわば反動的に超越化を可能にするのだろう。イデア界の反動としての超越神である。ならば、超越化、超越神化とは、否定・反動的なイデア界化である。強度が反動化しているのであり、反動強度として暴力となっているのである。ここで、強度と反動強度=暴力を絶対的に区別しないといけない。(思うに、ベンヤミンが区別した、神的暴力と法的暴力に相当するだろう。しかし、神的暴力という言い方は語弊があるだろう。だから、イデア的強度と呼ぼう。そして、反動強度は、反動暴力と呼んで明快に区別した方がよい。)結局、これが超越神宗教の構造である。この否定・超越の反動暴力性は、今日、当然、解体されなくてはならない。ポスト構造主義はこれを目指したが、理論が不備なため、挫折し、反動化した。結局、不連続的差異論(不連続差異論)がこれを解体するのである。私見では、スピノザ哲学やドゥルーズ哲学を批判的に吸収して、新たなイデア論となるものである。ドゥルーズが述べたように、超越性ではなく、内在性である。イデア界とは現象界に内在しているのである。一神教的超越性をこれで批判解体する。そして、不連続性によって、メディア界の連続同一化を批判解体し、差異の連続化、同一化、共同・連合化を批判する。そして、イデア界的差異の共存性から、多元的共存性が生起するのである。それは、多元的共感性、特異性・単独性的共存性である。