「イデア表現としての芸術」「自我の超越化:おそろしく危険な一神教

[叡智学][芸術] イデア表現としての芸術

芸術とは、いわばイデア界を表現するのである。現象界ではない。イデア的である。つまり、イデアとは、能動的観念であるから、イデア表現である芸術とは、単なる模写ではない。それはダイナミックである。強度表現である。そう、結局、感覚表現に、強度が入るのだろう。強度的感覚表現、これが芸術だろう。強度的だから、人を感動させるのである。単なる感覚表現では、凡庸である。
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December 26, 2004 02:02
[教育] 『崖っぷち 弱小大学物語』杉山幸丸著 中公新書ラクレ

三分の一強、読んだが、今日の大学の状況を語っていて、なるほどとうなずく。結局、資本主義的経済に大学がさらされたということである。また、大学を作りすぎたということでもある。でも、教育はその国の未来への投資である。それに対して、日本(GDP)は投資の割合が少ない。投資には短期投資と長期投資があるとするなら、教育は当然後者である。また農林水産業への支援は、長期投資である。どうも短期投資ばかしになっている。高速道路を作れば、土建屋や政治家がもうかる。これは短期投資である。これでは、視野狭窄、近視眼である。どうも民主主義哲学がなさ過ぎる。今や、ナショナリズムの時代ではない。どしどし、交流すべき時代である。そのためには、教育や文化に投資しないとだめである。長期投資ビジョンをもて!
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December 26, 2004 01:23
[備忘録] 詩:半生

少年老いやすく
もう半世紀も生きてきた
もう終わりから数えた方が早い
あと何年生きられるのか
そうずいぶん少ない気がする
残りは少ない
そう、出会いである
これで人間は変わる
自分にないものを与えてくれる人間との出会い
これで今ある自分がある
そう、不幸な人間とは出会いの乏しさにもよろう。
そう、出会いは人間、本、地であろう
でも、若いときの華やぎが失せるのはかなしいことである
そう、つらいときが多かった
孤独のとき
ただ、犀の角のように歩んだ
こころの火を信じて
私を導いてくれた火だろう
そう、この火、光を説明するために生きてきたのかもしれない
そう、たましいの火=光、それの奴隷だったかもしれない
しかし、それは力である、強度である
人間をおおいなる真理、経験、出会いに導く「聖霊」だろう
今生における生はとぼしくなってきた。とまれ、せいぜい、精いっぱいいきよう。また、還ってくるのだ
そう、生=死である。死とは超生である。
エトルリア人はあの世を現世と同様なものと考えたが、それは正しいだろう。あの世はすばらしいのである。そして、現世で修行するのだ。現世で、楽しむのだ。
そう、人生は高速道路だ
その先は、死という本源界だ
永遠回帰
でも、また帰る世だもの、よくしとかないとね
住み心地の良い世をつくらねば
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December 26, 2004 01:06
[叡智学] イデア論と身体

「検討問題 33」でどうしてプラトンイデアD.H.ロレンスの身体とが一致するのかという疑問を提出しておいた。ここで、それを検討しよう。先に、スピノザ哲学はイデア論的であることを述べたが、それを活用すれば、この問題は解けるだろう。すなわち、イデアとは、動的観念であると言ったし、身体と精神に関係するものである。イデアとは、観念ではなく、実質的理念である。それは、根源・本源の「力」を意味している。それは、以前私が造語した「魂質」である。つまり、魂と質料との統一体である。とまれ、この動的な観念、強度的観念であるイデアは、当然、より直接的な発現・発動としては、身体性を帯びるだろう。なぜなら、情動は身体的であるからだ。つまり、スピノザ哲学のように、イデアは、単なる観念ではありえない。それは、ダイナミクス=身体性をもつのである。そして、同時に精神性をもつのである。身体/精神としてのイデアの発現である。プラトンは身体的欲望を否定したが、それは正しい。ロレンスの身体性とは、身体的欲動ではないのである。それは、イデア的強度をもった身体のことであり、当然、イデアの表現・発現なのである。ということで、所期の問題に答えることができた。強度的身体と現象的身体とは別物である。
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December 25, 2004 18:09
[叡智学][備忘録] 検討問題 35:差異の極性に関して

差異の極性について

 差異の連続化の仮説に関して、二通りの考え方ができるだろう。一つは、90°ないし270°回転による境界の0°化である。これにより差異と差異とが連続化する。他の一つは、差異に極性を見て、90°、270°回転によって、極性連結による連続化を見るものである。両者、回転し、連続化するというのは共通である。相違は、虚軸による差異ゼロ化と、極性連結による差異ゼロ化である。差異ゼロ化も共通している。では、虚軸と極性連結が相違となる。結局、問題は極性の有無である。そして、回転の問題である。強度の問題である。強度とは何かとなろう。強度とはイデア的存在力量ではないだろうか。あるいは、イデア的存在力度である。この存在力度は、差異において一定であろう。いわば、差異の絶対値である。
 とまれ、極性連結も90°回転ないし270°回転を要する。ならば、問題は、極性連結が必要か否かであろう。つまり、極性が必要か否かである。つまり、連続の意味の問題である。境界ゼロ度の問題である。虚軸において、境界ゼロ度となる。これは、つまり、+−極性連結と等価ではないか。+−ゼロである。そう、結局、私は同じ事態二様に分けていたのに過ぎない。ということで、この問題を終えた。



[叡智学][宗教] 自我の超越化:おそろしく危険な一神教

 これは、父権化・一神教化に関係しよう。生存のために、イデア界的多神教性を棄却して、超越神というフィクション・幻想・幻像をこしらえて、自己暗示にかけるのだ。つまり、自然より優れた神を想定して、自我の暴力を肯定し、生存に役立てるのだ。ここには、欺瞞、騙り、はったり等があるのだ。虚勢、虚栄である。一種妄想的と言っていいかもしれない。虚としての超越神である。イギリスの詩人兼版画家のウィリアム・ブレイクは、ヤハウェを「だれでもない父」と揶揄している。空虚としての、虚栄としての超越神であり、バーチャルな神である。メディア界の水平線は本来両義的でゆらいでいる。イデア極と現象極がある。これが、多神教の領域であろう。しかるに、一神教は、この水平線の両義性を棄却する。水平線から離脱ないし乖離して、フィクションとしての超越性を形成する。つまり、水平線の超越としての唯一神である。水平線と分離・分裂した超越神である。ここで、水平線と超越神の乖離がある。後者を超自我とすれば、これで、私の疑問は解決するだろう。つまり、超越神という擬制・フィクションに、個体は同一化(同化)するのである。超越神が理想自我であり、同一化した個体には超自我が形成される。これが父権的自我の構造であろう。これははっきり言って、おそろしく危険なしろものである。実体的な水平線を超越した擬制・欺瞞としての「自我」であり、「自然」から乖離しているのだ。つまり、「自我」とは欺瞞的虚の存在である。また、単に欺瞞的だけでなく、水平線・多神教性を否定する暴力的存在である。一神教はきわめて危険である。イデア界的「自然」性、多神教性、差異共存性を否定する、自己中心的で、欺瞞で、虚で、暴力的で、また独断・独裁的な存在であるからだ。これが、キリスト教文明にはある。ユダヤ教もそうだろう。イスラーム教もそういう面はあろう。(この点は後で検討しよう。)
 ということで、所期の問題は済んだと言えよう。整理すると、一神教は、実質的な水平線を棄却しているので、いわば一種分裂症的である。実質と虚構との分裂である。暴力を善化する独善主義が生じる。これが、また父権的国家のありようであろう。アメリカが典型である。そして、この問題をD.H.ロレンスが天才的に洞察している。彼の『黙示録論』である。つまり、ヨハネ黙示録論である。超越神はコスモス・自然を破壊しようとするのである。虚構の独善的暴力的な超越神は自然・コスモス(宇宙)を破壊したいのである。それをねじ伏せ、抹殺したいのである。(アメリカ合衆国がそうだろう。)以前述べたが、キリスト教とは超悪魔的である。大変危険である。ロレンスの論は別稿で述べることにして、これに関してはこれで留める。結局、一神教を廃棄すべきだろう。一神教から新しい多神教に転換すべきである。あるいは、差異共存主義に転換すべきである。自然を超えたバーチャルな危険な宗教から脱しないといけない。それは戦争宗教である。超悪魔的宗教である。ホッブズ的宗教である。ポスト・キリスト教、ポスト一神教のエポックであろう。

p.s. これは冷酷無残な宗教である。魂、やさしさ、共感性が完全に欠落している。

p.p.s. ロレンスはキリスト教を二つに分けている。これについては別稿で述べよう。