『輪廻転生」と「イデア界と連続体(現象界)の相補性」

[叡智学] 輪廻転生


『輪廻転生を考える:死生学のかなたへ』渡辺恒夫著 講談社現代新書

不連続的差異論(不連続差異論)から見ると、輪廻転生はあり得るのである。イデア界のエッセンス・差異・イデアが不滅であり、その強度回転(メディア界)から現象化が生起すると考えられるからだ。霊、霊魂ではなくて、エッセンス・差異・イデアが存している。

p.s. というか、結局、イデア界がすべてである。この発現が現象界である。この時空体は、イデア界という不滅界・永遠界の発現であり、その発現と消滅が反復されるのだ。問題は、この反復に規則性があるのか、それとも偶然的なのかである。オカルト主義では、霊界を固定してしまうだろう。しかし、イデア界は、無限に多様なカオスモスであり、固定していないであろう。

p.p.s. イデア界から見ると、現象界とは残像・残響なのであろう。私はイデア界の出来事の影だろう。しかし、この影である私は考えるのである。現象界・仮象界の意味があるだろう。イデア界と現象界との交通があるのである。それがなければ、オカルティズムや一神教のように決定論となろう。そう、霊や神の決定論が人間を狂わし、戦争マニアにするだろう。キリスト教原理主義ヨハネ黙示録。ハルマゲドン。

p.p.p.s. この差異の偶然の問題は、ドゥルーズの『ニーチェと哲学』(国文社)ですばらしく論じられているだろう。



[叡智学] イデア界と連続体(現象界)との相補性


この問題は、陰陽の問題とも言えるだろう。イデア界とは陰であり、連続体・現象界とは陽である。現代は陽中心であり、陰がほとんど隠れてしまっているというように言えるだろう。とまれ、ここで問題にすることは、両者が相互補完的関係にあるということである。イデア界的強度にさらされたままだと、狂気的になるだろう。しかし、連続体のエネルギーだけでも狂気的だろう(傲慢、暴力)。両者の相互補完に精神・心身の健康があるだろう。だから、問題は、両者の中間帯であるメディア界の調整が必要ということになろう。身体技法はそのようなものでなくてはならないだろう。たとえば、禅とは、そのようなものだろう。イデア界(空)と現象界(色)とのバランスを取るのであろう。瞑想一般も本来そういうものではないか。とまれ、ここでは、イデア界の強度と連続体・現象界のエネルギーの相互補完・相補性を述べているのである。強度⇄エネルギーである。資本主義は後者のみ活性化し、前者を賦活させずに、埋蔵したままである。そう、このように強度を活性化させないでいるから、新興宗教神秘主義、オカルティズム等にはまるのである。とは言え、まったくの近代合理主義は、驕慢であり、自己盲目という狂気状態である。

p.s. もっとも、すぐれた文学や宗教書、あるいは芸術、そして自然に接することがメディア界の健全な形成に役立つだろう。携帯では一面的である。

p.p.s. 二つの狂気があるだろう。イデア界的狂気と現象界的狂気である。政治家、権力者は後者であろう。つまり、自己完結してしまうのだ。自己批判の視点、自己相対化の視点がないのだ。自己批判・自己相対化とは、自己の二重化から生じる。身体的自己と頭脳的自己の二重性である。

p.p.p.s. 自己には本来イデア界という他者がある。しかるに、資本主義的合理主義では、それを認めず、現象界のみを肯定する。だから、他者が不在である。そのために、エゴイズムという倨傲的暴力・狂気に囚われるのである。