反動的自我の「模倣欲望」について

[叡智学] 反動的自我の「模倣欲望」について

 この件について、以前に述べたが、今一度確認しよう。「模倣欲望」とは文化人類学者ルネ・ジラールの術語であり、ライバルの欲望を模倣し横取りする欲望=暴力のことである。簡単にいえば、嫉み、嫉視等による反動暴力である。だから、他者への同一視の問題がある。では、なぜ、他者を同一視するのか。これは精神分析学では、鏡像段階ということで説明されているが、私は精神分析学に批判的なので、そのまま使うことはできない。不連続的差異論から説明を試みなくてはならない。これは、やはり、メディア界の水平線の差異連続体にあるのではないだろうか。ここで、原分節化が起こる。つまり、不連続的差異が癒着して、連続体、同一体になる。ここに原分節化があるだろう。カントの先験的形式に相当しよう。しかし、この水平線はゆらいでいるのであり、イデア極と現象極をもち、両義的である。前者においてイデア界性があり、後者において原分節化がある。私は以前、錯視暴力と言った。つまり、自己を同一性として幻想することである。不連続的差異である個を、同一体して捉えるのである。つまり、個体の不連続的差異性、イデア界性を棄却して、同一連続化が起こるのである。そのため、自己と他者とが同一性で連続するのである。これが、思うに、「模倣欲望」の原因ではないだろうか。自己と他者とは同一である。しかし、他者は他者であり、自己に吸収しないといけない。これが横取り欲望・暴力であろう。
 もう少し、丁寧に考察しよう。イデア界での差異の共存性は共感性である。しかし、水平線での融合により、共存・共感性ではなくなり、同一化となる。これが他者への自己投影・射影・写像であろう。つまり、共存・共感ではなく、融合的一致である。他者の喪失である。これが、「模倣欲望」の根拠であろう。他者を同一化するために、他者の欲望(存在)を横取りするのである。つまり、ここには、メディア界の水平線における連続化=同一化=原分節化がある。つまり、イデア界的なものの棄却である。現象界暴力と言ってもいいだろう。ここと資本主義が関係しよう。イラク侵攻とは、アメリカ国家資本主義による、イラクという他者の欲望・存在の横取り、模倣欲望と言えるだろう。連続同一化暴力とも言える。結局、メディア界の水平線の下部の出来事である。イデア界の喪失である。今日、様々な殺人、暴力がなされているが、それは、すべて、この連続同一化暴力=近代自我主義=資本主義に拠ると言えるだろう。イデア界の喪失である。イデア界に還れ!

p.s. つまり、水平線での同一化とは、イデア界の強度が反動暴力になることである。つまり、個の強度、カオスモス性、全体性が、反動化して、自己絶対性、自己中心性、自己権力性を帯びるのである。つまり、自己神化が起こるのである。自己唯一神化が起こるのである。唯我独尊化である。だから、模倣欲望というよりは、差異否定暴力である。差異的他者の暴力的否定である。つまり、反動的自我にとって、差異的他者は認められないのである。自己同一性の支配・権力・暴力があるのである。自己同一性の秩序に合わないものを暴力的に否定するのである。アメリカ国家資本主義がこの典型である。
 以上、ジラールの理論とは異なることとなった。

p.p.s. では、どうして、このような反動暴力となるのか。それは、ある種不正直さ、不誠実さ、欺瞞によると思う。なぜなら、水平線は本来ゆらいでいるのであるが、それを、連続同一化ということで固定するからだ。ゆらぎを抑えてしまうのだ。でも、何故か。ここが核心の問題だ。フロイトは去勢不安と言った。しかし、これを認めるわけにはいかない。ここで、以前の検討が有効だと思われる。すなわち、女性と男性の差異強度の違いである。前者の方が高貴であり、後者は劣弱である。男性の場合、水平線において、現象性、連続性が不連続的差異性よりも強いと考えられる。だから、必然的に、連続化の強化が起こるのだろう。そして、近代資本主義においてこれが極大となるのだろう。イデア界の棄却、無視、廃棄である。狂信的な自我暴力の誕生である。ブッシュが典型である。これは、キリスト教文明の帰結である。正に、終末的状況である。イデア界の光が完全に閉ざされた世界である。まったき闇の世界。天の岩戸に天照がお隠れになっているのである。しかし、連続化の強化とはどういうことか。本来ゆらいでいるものを否定するとは何か。ゆらがれると困るのだろう。そう、やはり、苦、生存の苦がああるのではないか。そして、うらみ、ねたみ、反感。喜びが強ければ、差異やゆらぎを維持する。しかるに、苦が強ければ、差異やゆらぎは維持されないのではないだろうか。つまり、反動的強度が生じるだろう。それに連続化が結びつくのだろう。苦の問題と連続化、この二つによって、連続化が強化されて、イデア界忘却となるのだろう。だから、悪人、狂暴な者、反動暴力的な者とは、そこから見れば、気の毒な存在である。喜びを知らず、苦が強いのである。だから、連続化して、ルサンチマン的なのである。ここでは、まったくスピノザ哲学の慧眼を借りている。イデア界的不連続的差異の喜びのない人が、反動暴力的なのである。ブッシュ、小泉、金正日等は、喜びを知らない人間なのだ。イデア界的歓喜。不連続的差異の共存の歓喜。これから、ここから始めなくてはならない。女性の方がふさわしいだろう。最後に警句。

苦から暴力が生まれる。
喜びから平和が生まれる。

cf. 以下参照
http://blog.melma.com/00122700/?word=%BA%F8%BB%EB%CB%BD%CE%CF
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