反動的自我について

[叡智学] 反動的自我について

 問題は、メディア界の水平線ないし水平軸での心的行為にあろう。水平線上部は、イデア界的であり、ここでは、差異は共存的である。つまり、多元性をもっている。しかし、水平線下部となると、原分節や言語分節によってクリア・カットな世界となり、形式論理が適用される。排中律矛盾律等が真理の前提になる。(もっとも、量子論では違うが。)これは、二項対立とつながっていよう。
近代においては、これがいわゆる近代的自我とつながるのである。つまり、排他的論理的自我であり、真理に合わないものを否定・棄却・攻撃するのである。ここでは、冷酷無惨な真理が支配している。このような形式論理的近代的自我の構造を見ると、メディア界の水平線の上部を否定・棄却しているのである。精神分析学では、単純に抑圧や排除という用語を使用するが、私はそれをできるだけ使わずに、説明したい。
 これまでの検討から、差異の90度回転によって、差異が連続化することを述べた。この差異連続化が、原分節を形成すると言えよう。しかし、本来は、水平線はゆらいでいるのである。そして、水平線の原分節から、言語分節へと飛躍する。このとき、水平線のゆらぎが、いわば、固定化されるだろう。つまり、多元性と原分節との両義的な境界から、一義的な言語分節つまり同一性の言語分節がなされる。図解すると、▲1、▲2,▲3,・・・▲n という山の多元性がある。それに対して、▲という原分節がある。それに対して、「yama」という音分節がなされる。あるいは、「山」という文字分節がなされる(本来は、▲のような象形であろう。)この言語分節により、同一化がなされ、それまでの、山の多元性や原分節が、外、外部へと排されるのである。そして、イデア界的強度も同様に棄却されるのである。では、この棄却する、否定する力とは何かである。フロイト死の欲動であると言った。孫の糸巻き遊びを見て、フロイトはそれを思いついたのである。肯定(ダー)と否定(フォルト)である。否定されるのは、母親である。問題は否定する力である。それは、多元性、多元的共存、他者との共感性を否定する力である。一種自我保存力と言ってもいいかもしれない。自我保存的攻撃力である。前に私は、破壊本能のことを言ったが、この自我保存的攻撃力とは破壊本能である。つまり、身体・身心的苦の状態において、破壊本能が作動するのである。これは、嫌悪、憎悪、恨み等の感情をもっていよう。反感、ルサンチマンである。そして、ダーとフォルトという原言語で、対象を捉えるのである。つまり、言語分節の基盤には、破壊本能があり、ルサンチマンがあるということであり、それは、多元的なイデア界性に対して否定的である。しかし、この破壊本能は、イデア界回帰衝動でもある。つまり、連続体となった有機体における苦によって引き起こされた、有機体を破壊するようなイデア界的反動性である。すなわち、破壊本能とは、イデア界的反動性である。それは、共存ではなくて、自我保存衝動である。イデア界的強度が反動化されているのだ。つまり、反動強度である。これが、破壊本能である。そして、この反動強度を駆動させて言語分節=自我保存力が構築されるのと言えるのではないだろうか。ということで、言語分節的自我化とは、反動強度を駆動力としてもつのであり、本来的に、攻撃・暴力的である。そして、近代的自我となるとこれが、近代合理主義をまとって、知の暴力となる。イデオロギーというのも、ここに拠るだろうし、アメリカの民主主義イデオロギーもここによるだろう。また、宗教も、当然、自我がある限り、破壊本能を秘めている。(解脱とは、自我の縛りを解くことであり、イデア界的多元性、差異共存性に導くものであろう。)
 ということで、自我、言語分節が反動強度をもつことがわかった。資本主義とこれは結びついている。差異共存主義は、この反動強度、反動暴力を解消する方向に向かうのである。ポスト構造主義は、この言語分節反動暴力の解体を目指したのだが、理論的に中途半端であったため、根本的な解決はされなかった。このためには、身体的情動を能動的に肯定することが必要である。東洋の身体技法はこのようなものであるが、新興宗教等に濫用されていると言えよう。問題は、特異性を基にして、身体情動を発露させることであり、そこで、能動的共感性、能動的観念(スピノザ)を形成していくべきである。また、おそらく、自然に触れることも必要であろう。なぜならば、自然に単独で触れると、身体情動が発動するからである。つまり、自然のイデア界性と身体とが交通・交感・共感するのであるから。都市は確かに便利で洗練があるが、この身体情動を閉ざす傾向をもつと言えよう。また、詩や俳句の創作、読書もいいだろう。思うに、文学の効用の一つはそのようなものである。美術や音楽よりも、文学の方がいいのは、それが、言語知性を経由するからである。観念を通して、身体に通じるのである。もっとも、すぐれた美術、音楽も身体的である。文学よりも身体強度が強いとは言える。ということで、差異共存主義のためには、身体的強度の発動が必要ということになった。言語分節の反動強度を身心的に能動化しないといけない。教育ははっきりここに基づくべきである。

p.s. スピノザは喜びをもつことを述べている。確かに、言語分節的自我化は反感性をもつが、実は、イデア界的歓喜、差異共存的歓喜を人間は内在・潜在させているだろう。これを展開する必要があるだろう。政治家や官僚や知識人等はルサンチマン的で、このような歓喜が欠落するだろう。これでは、戦争が絶えないし、また、民衆を馬鹿にした政治がなされるだろう。身体情動を開くとは、実は、このイデア界的差異共存の歓喜を展開することである。ルサンチマンの人間はこれを憎むのだ。イデア界的なものを憎悪し、嫌悪し、否定するのだ。政治家をイデア界的差異共存歓喜力をもった人にしないといけない。哲人の政治は必要である。現代の反動的自我の政治家では、御陀仏である。