いわゆるソーカル事件:『「知」の欺瞞』

[哲学][自然科学] いわゆるソーカル事件:『「知」の欺瞞』

2000年に翻訳の出た『「知」の欺瞞:ポストモダン思想における科学の濫用』(アラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン著 岩波書店)であるが、私がよく言及するドゥルーズガタリへの言及があるので、少しそのページを覗いたが、確かに彼らの叙述はあいまいである。(あいまいな叙述はドゥルーズの他の著書にもある。どうも説得力のない説明をしていると感じることがある。)しかし、「ある程度注意深く読めば、ここからいくつかの意味の通る文をみつけることはできるが、文章全体は完璧に意味不明である。」(p. 211)と難じているのを見ると、これは違うと思う。あいまいな記述は確かに非難に値するものの、ドゥルーズガタリが言わんとしていることは漠然とだが、直観できるのである。つまり、かれらは、いわば、イデア論から自然科学の領域を規定しようとしているのであり、その文脈がわからなければ、ナンセンスとなろう。思うに、ただ一節だけを見ただけだが、推測として、ソーカルとブリクモンは、自然科学側からのみ判断しているのではないだろうか。ドゥルーズガタリが行っているイデア論側からの自然科学の規定という側面を見れば、それなりにわかるものであり、「・・・文章全体は完ぺきに意味不明である。」とは言えないのである。また、自然科学的な説明の判明さを求めるならば、ドゥルーズガタリは失格するだろう。自然科学と哲学の次元の違いがあるのであり、それを理解しない限り、前者から後者への一方的判断となり、不公平、無理解なものとなるだろう。

p.s. 書店にこの本が出たとき、ちらと立ち読みしたが、なにか一方的な批判だなとは感じた。今の私見を言えば、科学的ピューリタニズムで、哲学・思想の弱点(あいまいな叙述性や不正確は科学用語の使用等)を難じて、一種魔女狩りをやっているように思う。一種、科学原理主義である。キリスト教原理主義とパラレルではないだろうか。とまれ、このような二項対立的断裁は、哲学と科学との関係の理論的解明を阻害するだろう。哲学と数学と科学をよく知る人間が今や必要である。学際的探究が必要である。