イデア界、境界、90度回転、連続的見え

[叡智学] イデア界、境界、90度回転、連続的見え

差異1/差異2/差異3/・・・差異n

     図式1 イデア

図式1は、イデア界における不連続的差異の共立状態を境界の/を入れて示したものである。ここで、思いついたことは、差異と差異との境界が90度回転して、正面に向いた状態である。図示しよう。
 
差異1・差異2・差異3・・・差異n

      図式2 

イメージとしては、差異1が右回りに90度回転し、差異2が左回りに90度回転する感じである。あるいは、差異それぞれが、右回転した場合、あるいは左回転した場合である。垂直的な境界がこのために、水平的な線分となり、いわば連続化するのだ。では、この連続化とは何を意味するのか。これこそ、ベルクソンドゥルーズの差異=微分ではないか。つまり、差異1と差異2とが、水平線により、連続化されるのだ。つまり、ベルクソンが異質的多様体と言ったものがここにはあるだろう。連続的異質的多様体である。確かに、ここにおいて事実として連続体が生じているだろう。そして、多くの天才たちが、ここをとらえて、差異連続体を構想してきたと言えるだろう。ベンヤミンしかりである。かれはプラトンから出発しながらも、ライプニッツモナド論へ移行した。そして、理念の星座を形成した。星座は明らかに連続体である。ということで、ほとんど多くの天才たちが、図式2の水平線となった境界をベースに思考していると考えられるのである。例外はプラトンであり、ニーチェであり、キルケゴールであり、ガタリである。つまり、ほとんどの場合、イデア界本来の不連続的差異の状態、特異点の状態という本源・根源からでなく、90度回転した水平線の境界から出発しているのだ。そして、ドゥルーズの場合は両者の折衷であり、混乱である。思うに、この90度回転というのは、事実であり、これにより、差異の連続化、差異=微分が生じるのである。ところで、私は原分節化のことを言ったが、おそらく、ここに原分節化の原基があるのではないだろうか。差異の連続体に、原分節化があるのだろう。そして、ここから、言語分節が生まれるのだろう。私は以前、同一化の錯視と言ったが、それは必然的な錯視だろう。なぜなら、差異境界が連続体となるからだ。しかし、実は水平線はゆらいでいるだろう。もともとは、差異は不連続であるのだから。たぶん、死生の問題はここにあるだろう。
次に、この水平線と原分節について考察しよう。連続的水平線は、差異=微分が成立して、積分されて、物資が形成される。とまれ、この水平線がメディア界であろう。差異の連続体と原分節の関係はどうか。おそらく、これらは等価だろう。たとえば、ベンヤミンが理念の星座と呼んだものは、差異の連続体だろう。そして、これが現象の単位となるのだろう。すなわち、原分節である。以前に、メディア界の二つの極として、イデア極と現象極とをあげた。水平線は、現象極であろう。では、イデア極になるのは何であろう。それは、この差異の連続体の裏面だろう。つまり、内在する不連続的差異だろう。そう、以前、イデア極をプラスとし、現象極をマイナスとしたが、イデア極とは、不連続的差異の集合体として存するだろうし、現象極は、差異の連続体ないし原分節性として存するだろう。また、女性はイデア極側であり、男性は現象極側と述べたが、それも間違いではないだろう。つまり、水平線の現象側とイデア側があるということである。


    [イデア界]:不連続的差異
      
    イデア極(女性):潜在意識:右脳
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー<水平線=メディア界>
    現象極(男性) :原分節:左脳

    [現象界]:言語分節

   
     図式3


以上のように確認すると、やはり、これまで、哲学、理論、文化等は、男性が中心であったため、図式3の水平線を含めて、下部中心であったと言えよう。ライプニッツベンヤミンでさえそうである。天才のドゥルーズやロレンスでさえ、水平線の両側をゆらいだと言えよう。水平線の上部は、プラトンニーチェキルケゴールガタリが追究したと言えよう。とりあえず、ここで、この稿を閉じよう。