「イデア界での差異の共存力」「共存的共感性と利己的唯我性」

[備忘録][叡智学] イデア界での差異の共存力について


イデア界において、差異1と差異2とが不連続的に共立している。両者の境界において、強度1と強度2とが相互連関していよう。思うに、これは計算だと何になるのか。これはおいておこう。思うに、強度とは共通の力ではないか。共通の力ならば、それは、当然、交感・共感力をもつ。しかし、差異と差異とは不連続でなければならない。差異1/差異2の/である。そう、強度を波動と考えたらどうだろうか。強度波動1と強度波動2とが/で相互関係する。つまり、波動1/2である。これが、境界であろう。つまり、差異1/波動境界/差異2ではないか。波動境界において交感・共感するのである。しかし、これは共鳴ではなくて、強度交通であろう。そして、差異の独立において、この交感・共感力がはたらくのである。不連続的に存立するときに、この交感・共感力が成立するのであ。前者がなくてはならない。つまり、不連続的差異的交感・共感・共存力である。そして、これが、現象界においても、成立するようにするのが、イデア界的衝動である。たとえば、イラクにおいて香田さんが、テロリストに惨殺されたが、香田さんの行動は、イデア界的衝動によるものと言えよう。香田さんのエッセンス・イデア・差異は、イデア界に存立していると言えよう。イデア界のために身を奉じたと言えよう。イデア界から、強度波動を送っているかもしれない。


[叡智学] 不連続的差異論:共存的共感性と利己的唯我性


 差異と差異との共存とは、イデア界での「現実」である。しかし、現象界いわゆる現実では、差異と差異とが衝突して、なんらかの暴力的関係が生じる。つまり、単純に言えば、物理的に現実とは、ある特定の時空間を二つの別々の物体が占めることはできないということである。(もっとも、マクロのレベルであるが。量子レベルでは、粒子/波動の二重性が生じるため、このことが成立しなくなる。)ここで、戦争が起きると言えるだろう。一方のものが、他方のものを奪おうとするのである。つまり、現実では、一方の差異が自己中心的、自己権力的になり、他方の差異を認めないのである(イラク侵攻を見よ)。これは前者の差異が、差異ではなくなり、同一性となっていると言えよう。つまり、本来、差異の帯びてもつ二重性、つまり自己差異化がないのである。つまり、自己を差異として認識することである。これは、言語的自我認識と身体的感性的自我認識の二重性・ズレである。つまり、自己を他者として認識することである。少なくとも、自己は二重存在であることを知ることである。自己を他者と知れば、通常の他者も他者として認識できるのであり、ここで、自己と他者との差異・区別が生じて、差異の共存の可能性が生じるのである。
 しかし、自己権力化=同一性は、自己を一重の存在としか見ていない。つまり、言語的自我に同一化しているのであり、身体的感性的自我認識が欠落しているのである。これが、権力者、独裁者、支配者の認識であろう。また、近代主義的自我もそうだろう。我思う故に我在りとは、正にこのことを意味しよう。自我認識が自己存在となり、一重となるのだ。身体的感性認識の欠落がある。一般に科学とは、このようなあり方を基盤としていよう。しかし、芸術や哲学はこれらを含めた「知」のあり方を追求する。(数学は、思うに、中間的なように思う。)
 では、近代主義、資本主義において欠落する身体感性的認識であるが、これは、どのようにして成長するのだろうか。私は共感性と言ってきたが、これは、二重性の認識から生じよう。そう、身体感性を身体情動性と呼んだ方が適切だろう。この身体情動は、明らかにデカルトによって排除されたものであり、スピノザがすくい上げたものである。いわゆる心や魂と言われるものは、身体情動性である。結局、人間は、身体情動認識と知的言語分節的認識の二重性をもつのであり、またそのような二重存在である。つまり、身体情動存在と知的言語分節的存在である。そして、前者にイデア界への契機があるだろう。カントが物自体と呼んだものとある意味で似ていよう。さて、では、どうやって身体情動認識を形成していくかである。言語的知的認識をするときは、身体情動認識は妨げになることが多い。(だから、デカルトは、不明晰なものを排除したのだ。)
しかし、身体情動性を意識から棄却したときどうなるだろうか。つまり、身体情動性の否定であり、それは反動化するだろう。本来人間にある強度が否定され、反動化すると言えよう。これが反動暴力である。近代主義的認識は反動暴力をもつのであり、これが、他者を否定すると言えよう。つまり、二つの他者の否定があるのである。一つは身体情動性=強度である自己内在的他者、一つは自己以外の他者=差異である。これにより、近代主義的主体は、自己と他者に、無意識的に暴力的になるのである。結局、ホッブズが説くように万人の万人に対する戦争状態である。そして、これと資本主義が一体化しているのであり、正に、暴力的な文明となる。冷酷無残なのは、近代主義の基礎からである。ということで、否定された身体情動を取り戻す行為が文学、芸術、哲学、深層心理学等においてなされてきた。たとえば、文学、芸術での宇宙性がそうである。しかし、これは、実はやはり反動性をもつのである。否定された身体情動としての宇宙性であるが、どうして反動的なのか。それは、反動の反動であるということである。つまり、近代主義と宇宙主義とはいわば二項対立的になるのであり、これは、同じメダルの裏表である。つまり、近代主義の自我主義に宇宙主義が囚われるからである。つまり、近代的自我を残したまま、宇宙主義化するからである。結局、身体情動性の肯定とは、外部の他者の肯定でなくてはならないだろう。つまり、自我主義を乗り越えて、外部の他者を肯定しないといけないのである。すなわち、身体情動性にある共感性と自我主義を切り離さないといけない。つまり、自我主義の反動暴力を、いわばスピノザ的に、能動観念を形成するように、能動的に変容しないといけない。つまり、身体情動の真の能動化である。これにより、脱自我的な、特異個体の差異強度が形成される。つまり、反動的暴力の乗り越えである。これにより、身体情動が差異的な共感性をもつようになる。これで、現象界における差異と差異との共存の基礎ができるといえよう。そして、この身体情動の根源を、不連続的なイデア界とすることで、最終的に、差異と差異との共存の主体的基礎は構築されるだろう。
 では、身体情動性を否定した近代的自我はどうなるのだろうか。それは、無意識の暴力・権力性を帯びるのである。それは、憎悪であり、反感であり、攻撃衝動等である。では、問題は、近代的自我の暴力性は自己本人にとって何を意味するだろうか。それは、イデア界の共存力の否定である。つまり、イデア界性を無視していることになる。しかし、イデア界とは原基であり、それを否定するということは、イデア界の強度が、差異共存の多元的強度が、どこかで、近代的自我主体のどこかではたらいているということになろう。結局、自我と強度との分裂が現れるだろう。自我的個体と強度的個体との分裂である。そして、両者が混成するようになるだろう。二重人格や多重人格が現れるだろう。そして、反動的であるから、暴力性を帯びていよう。また、近代的自我とは、いわば、唯我的、独我的なので、自分の狂気に気がつかないだろう。ということで、近代主義とは主体的には破滅の存在方式である。当然、最悪の事態が生じる。
 以上の処方箋により、脱近代主義、ポスト近代主義となるのである。しかし、これまでのポスト・モダンとは、中途半端で反動性をもっていた。だから、ポスト近代西欧とでもいうべきだろう。また、脱構造主義とでも呼ぼう。