現象界の「私」はイデア界では何か

[宗教][叡智学][備忘録] 現象界の「私」はイデア界では何か


「私」のエッセンス・イデアイデア界にあるのかもしれない。宗教や精神世界や神秘学等で、霊、スピリットと呼んできたものは、本当は、エッセンス、イデア、差異のように思えるが。この方が、おどろおどろしくなくて、叡知的でいいだろう。ルドルフ・シュタイナーは、人間を四つの身体(自我ーアストラル体エーテル体ー物質体)に分けたが、自我というより、特異体、単独体、特異個のエッセンス・イデア・差異であろう。「私」、「自我」のエッセンスがイデア界にあるような気がする。一種輪廻転生がある。

p.s. 「私」の結晶体のようなものかもしれない。

p.p.s. ますます、プラトンに近づいてきたようだ。魂の不滅をプラトンは説いた。カントは実践理性でそれを要請した。私は、特異性のエッセンス・イデア・差異と言う。

p.p.p.s. ここで、エッセンス等を、ゲーテの原型、レヴィ=ストロースの構造等にしてはいけない。それでは、印、ハンコになってしまうだろう。まったく同一性である。そうではなくて、イデアとしてのエッセンスであり、多様に生成変化・現象化するのだ。

4p.s. 「私」のエッセンス・イデア・差異というのであり、イデアとしての魂ではない。というのは、身体的欲望と「私」のエッセンス・イデア・差異とは結びついているからだ。つまり、イデア界のエッセンスにより、私の身体が現象化するのだ。プラトンは霊肉の二元論が見られるが、しかし、プラトン主義からすれば、イデア界=現象界である。イデアが現象となる(生成する)のである。あるいは、見られるのである。だから、イデア界のエッセンス・イデア・差異が私の身体になるというのはプラトン主義から見て正しいと考えられる。

5p.s. 結局、「私」の核のようなものは滅びないということである。しかし、それは、不連続的である。また、シュタイナーの言うような自我ではなくて、特異個体性である。それが、不滅ということである。つまり、不連続的な特異個体性が、イデア界にあるということであり、それが永遠であるということである。ニーチェ永遠回帰を説いたが、それは同一物の回帰であった。しかし、それは正しくない。不連続的な特異個体=差異=イデアの反復としての永遠回帰である。それは、螺旋的高進をするだろう。個々別々の、差異的反復をしているのだ。そう、個物、とりわけ人間はひとりひとり単独的存在なのだ。ライプニッツモナドと言ったが、予定調和と言った。しかし、予定調和はないのである。ただ、個物と個物の共存があるだけである、プラトンイデア界のように。そう、プラトンへ還れである。リターン トゥ プラトンである。永遠の単独者である「私」。


cf. プラトン Platヾn 前 428 か 427‐前 348 か 347

古代ギリシアの大哲学者。 ソクラテスから受けた決定的な影響のもとに〈哲学〉を一つの学問として大成した。イデア論を根本とする彼の理想主義哲学は,弟子アリストテレスの経験主義,現実主義の哲学と並んで,西欧哲学思想史の全伝統を二分しつつ,はかりしれぬ影響と刺激を与えている。

[生涯]

 アテナイの名門の家柄に生まれた。父はアリストン Aristヾn,母はペリクティオネ Periktiヾn^。かなり年長の兄にアデイマントス Adeimantos とグラウコン Glaukヾn,姉 (または妹) にポトネ Pヾtヾn^がいて,彼女の息子スペウシッポス Speusippos が,プラトンの死後アカデメイアの学頭を継承する。父アリストンは早逝したらしく,ペリクティオネは彼女の叔父ピュリランペス Pyrilamp^s と再婚し,プラトンの異父弟にアンティフォン Antiphヾn が生まれている。母方の叔父カルミデス Charmid^s とその従兄クリティアスは,早くから〈ソクラテスの仲間〉であり,有能な人物でもあったが,前 404 年の〈三十人僭主〉の中心人物となり,内乱においてともに戦死した。プラトンが生まれたのは,大政治家ペリクレスの死の直後であり,長期にわたるペロポネソス戦争のさなかに青少年時代を過ごした。すでに幼いころから家族とともに親しんでいたソクラテスの人格と生き方は,たえず彼に大きな感化を及ぼしつつあったが,当時のアテナイ人青年の一人として,彼もまた当初は,やがて政治家となって国政に参画することを当然の将来として志していた。しかし現実の情況推移は,しばしば彼を失望させた。とくに,ペロポネソス戦争敗北直後に樹立された政権がたちまち寡頭独裁政権と化して崩壊してしまったこと (前 404‐前 403),さらには,次いで回復された民主政体のもとでソクラテスが不当な告発を受け処刑されるに至ったこと (前 399) は,いやしがたい大きな衝撃を彼に与えた。

 ソクラテスの死から 12 年間ほどは,内外両面にわたり彼の〈遍歴時代〉がつづく。処刑の直後,一時メガラに赴いたのをはじめ,この間にキュレネやエジプトにも旅行している。同時に,生前のソクラテスの言行の指し示していた意味の究明が,彼を主人公とする対話編の執筆という形で始められた。この活動と多様な現実体験の蓄積との重ね合せの中から,最終的に彼が到達したのは,政治権力と哲学的英知の一体化という〈哲人王〉の思想であった。前 388 (または 387) 年,プラトンはこの構想を抱きつつ,南イタリアシチリア島への旅に出る。この旅行の途次,タラスにおいてアルキュタスを中心とするピタゴラス学派に接し,シチリア島のシュラクサイにおいては専政君主ディオニュシオス 1 世,およびその義弟にあたる青年で政治改革に情熱を示すディオンと運命的な出会いがなされた。アテナイに戻ったプラトンは,自分の理想と目的にかなった人材の養成を終生の事業と見定めて,学園アカデメイアを創設する。彼は後半生は,おおむね,この学園の運営と対話編の執筆の継続によって,〈哲学〉を人間の営みの中に確実に位置づけることに捧げられた。しかし〈シチリア事件〉がこの充実した〈学頭時代〉に波乱をもたらす。前 367 年,ディオニュシオス 1 世が死去し,同 2 世が王位を継ぐと,かつてプラトンに深く共感したディオンが,この若い君主を教導することによって哲人王の理想が実現できると考えて,プラトンに協力を要請してきたのである。結果は,プラトンの予測どおり不首尾に終わり,ディオンも後に暗殺 (前 354) されることになるが,プラトンはその間,高齢をおして 2 度 (前 367,前 362) もシュラクサイに渡り,生命すらおびやかされながら,ねばり強い努力を傾けている。晩年のプラトンは,現実をさらに厳しい目で見つめつつ,アカデメイアでの研究教育と対話編の執筆という本来の仕事に専念し,その旺盛な思索力は 80 歳で世を去るまで,少しも衰えを示さなかった。

[著作]

 プラトンの著作は,古代の思想家や作家の中では例外的に,長期にわたる伝承上の困難をのりこえて,一つも失われずにほぼ完全な形で今日まで伝えられている。伝承の基礎となったのは,後 1 世紀のローマにおいてトラシュロス Thrasyllos がプラトンの全対話編に書簡集を加えて編集した九つの〈四部作集〉である (ただしそのうちの数編は偽作)。最初期の近代活字本の一つにステファヌス版 (1578) があり,プラトンの原典個所を引照する場合には,この版本のページ付けと約 10 行ごとに付された A 〜 E の段落分けによって指示し,現行校本にも必ずこの数字と記号が明示されている。 19 世紀以来の古典文献学,とくに L.キャンベルが始めた文体統計学的研究によって,各著作の執筆時期の三大別が可能となった。前期著作:《ラケス》《リュシス》《カルミデス》《エウテュフロン》《ソクラテスの弁明》《クリトン》《エウテュデモス》《プロタゴラス》《ゴルギアス》《メノン》など。中期著作:《痢宴》《ファイドン》《国家》全 10 巻, 《ファイドロス》《パルメニデス》《テアイテトス》 (ただし文体研究による区分とは別に, 〈イデア論的対話編〉である前 4 者のみを中期著作と呼び, 《パルメニデス》以降を後期著作とする場合もある)。後期著作:《ソフィステス》《ポリティコス (政治家) 》《フィレボス》《ティマイオス》《クリティアス》《法律》全 13 巻, 《エピノミス (法律後編) 》。プラトンの著作は,書簡集と《ソクラテスの弁明》を別にすれば,すべて対話編であり,ソクラテスの問答の過程を活写した前期著作や,そこに内包されていた可能性を積極的に展開させた中期著作では,ソクラテスがおもな話し手となり,また主題の内容が明白に実在のソクラテスを逸脱した若干の後期対話編では他の人物が主役の位置につく。したがって,プラトン自身が直接一人称で語ることをしていないが,しかしその全体は,まさしく彼自身の思想の展開と発展を表明したものにほかならない。

[思想]

 ソクラテスの言行の指し示していた意味の究明,とくに問答を通じて倫理的徳目 (勇気,節制,美など) を明確に定義しようとした努力の継承・発展が,プラトン哲学の基本的動因となっている。ソクラテスの問い,例えば〈美とは何か〉を満たすべき〈まさに美であるもの〉が,プラトンによって人間の真の知の対象となり理想となる真実在として積極的に措定されるようになる。これがイデアである。イデア論は,倫理や価値の領域をこえて,広く自然・世界解釈全般に適用され,存在と生成の問題すべてにわたる統一的な説明原理となってゆく。これと並行して,〈何よりも魂をたいせつにせよ〉というソクラテスの主張は,〈イデアを認識するために魂・精神をできるだけ身体・感覚の影響から純化せよ〉という要請として継承され,魂・精神は永遠不滅のイデアと類縁関係にあって,本来不死なるものであるという確信となる。イデア界とその認識努力の究極には, 〈学ぶべき最大のもの〉として,〈善のイデア〉がある。仮説・前提を廃棄しつつ上方の原理へとさかのぼり,〈善のイデア〉の直知にまで到達することを目ざす,純粋思惟によるイデア界の探究が〈ディアレクティケdialektik^〉と呼ばれ,哲学的営為の最上位におかれる。以上がプラトン哲学の基本構想であるが,中期末から後期にかけての著作においては,それをより強固なものとするための論理的反省や認識論的基礎の批判的考察がなされるとともに,多くの新しい発展的要因が付加される。魂概念は,〈自己自身を動かすもの〉という新たな規定を介して,〈世界霊魂〉の考えへと発展し,〈範型〉としてのイデアおよび生成の場としての〈空間〉とあわせて,プラトンの自然観,宇宙像を支える基本原理となる (《ティマイオス》)。また,《ソフィステス》や《ポリティコス》において定義のために用いられる〈分割法〉や,《フィレボス》に見られる存在の構造への新視点,すなわち〈限〉と〈無限〉および両者の〈混合〉,そしてその混合をもたらす〈原因〉によって存在を分析する手法なども,晩年の思想の特色である。彼の哲学は,ソクラテスの言行に示唆されていた可能性の究明から出発して,価値と認識と存在とを統一的に把握する一つの形而上学を目ざしたものといえるが,その発展はつねに理想的な国家社会の実現への努力と一体をなしている。理想国家を大胆に描いた《国家》や,よりリアルな国制改革を論じた《法律》の二大著作は,政治の書としても,後世に大きな影響を与えている。 ⇒ギリシア哲学‖新プラトン主義‖西洋哲学

藤沢 令夫

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カント Immanuel Kant 1724‐1804

ドイツの哲学者。西欧近世の代表的哲学者の一人。東プロイセンの首都ケーニヒスベルク (現,ロシア領カリーニングラード) に馬具商の長男として生まれ,幼児期に敬虔主義の信仰篤 (あつ) い母から大きな影響を受ける。当地のフリードリヒ学舎を経てケーニヒスベルク大学に学び,当時ドイツの大学を支配していたライプニッツ=ウォルフの哲学に触れるとともに,師 M.クヌッツェンの導きのもとに,とりわけニュートン物理学に興味を寄せる。大学卒業後ほぼ 10 年間家庭教師をつとめながら研究を深め, 1755 年《天界の一般自然誌と理論――ニュートン物理学の原則に従って論じられた全宇宙の構造と力学的起源についての試論》を発表,ニュートン物理学を宇宙発生論にまで拡張適用し,のちに〈カント=ラプラスの星雲説〉として知られることになる考えを述べる。同年,ケーニヒスベルク大学私講師となり,論理学,形而上学はじめ広い範囲にわたる科目を講ずる。 60 年代に入り,ヒュームの形而上学批判に大きな衝撃を受け,またルソーにより人間性尊重の考えに目覚める。 70 年ケーニヒスベルク大学教授となる。就職資格論文《可感界と可想界の形式と原理》には,空間,時間を感性の形式と見る《純粋理性批判》に通じる考えが見られる。 81 年,10 年の沈黙ののちに主著《純粋理性批判》刊行。さらに,88 年の《実践理性批判》,90 年の《判断力批判》と三つの批判書が出そろい,いわゆる〈批判哲学〉の体系が完結を見る。ほかに主要著作として,《プロレゴメナ》(1783), 《人倫の形而上学の基礎》 (1785),《自然科学の形而上学的原理》 (1786), 《たんなる理性の限界内における宗教》 (1793), 《人倫の形而上学》 (1797) などがある。

[カント哲学の基本的性格]

 〈世界市民的な意味における哲学の領域は,次のような問いに総括することができる。 (1) 私は何を知りうるか。 (2) 私は何をなすべきか。 (3) 私は何を希望してよいか。 (4) 人間とは何か。第 1 の問いには形而上学が,第 2 のものには道徳が,第 3 のものには宗教が,第 4 のものには人間学が,それぞれ答える。根底において,これらすべては,人間学に数えられることができるだろう。なぜなら,はじめの三つの問いは,最後の問いに関連をもつからである〉。 カントは,《論理学》 (1800) の序論でこのようにいう。彼の考える哲学は,本来〈世界市民的〉な見地からするもの,すなわちいいかえれば,従来の教会のための哲学や学校のための哲学,あるいは国家のための哲学といった枠から解放されて,独立の自由な人格をもった人間としての人間のための哲学でなければならなかった。 カントは,そのような哲学を打ちたてるために三つの批判書を中心とした彼の著作で,人間理性の限界を精査し,またその全射程を見定めることに努めたのである。

 〈私は何を知りうるか〉という第 1 の問いに対して,カントは,《純粋理性批判》で,人間理性によるア・プリオリな認識の典型と彼の考える純粋数学 (算術・幾何) と純粋自然科学 (主としてニュートン物理学) の成立可能性の根拠を正確に見定めることによって答える。すなわち,これらの学は,ア・プリオリな直観形式としての空間・時間とア・プリオリな思考形式としてのカテゴリーすなわち純粋悟性概念の協働によって確実な学的認識たりえているのであり,霊魂の不滅,人格の自由,神などの感性的制約を超えた対象にかかわる形而上学は,これらの学と同等な資格をもつ確実な理論的学としては成立しえないというのが,ここでの答えであった。

 〈私は何をなすべきか〉という第 2 の問いに, カントは,《実践理性批判》で,感性的欲求にとらわれぬ純粋な義務の命令としての道徳法則の存在を指示することによって答える。道徳法則の事実は,理論理性がその可能性を指示する以上のことをなしえなかった〈自由〉な人格の存在を告げ知らせ,感性的制約を超えた自律的人格とその不可視の共同体へと人々の目をひらかせるとされるのである。こうして,道徳法則の事実によってひらかれた超感性的世界への視角は,さらに第 3 の問い〈私は何を希望してよいか〉に対しても答えることを可能にする。すなわち,ひとは,理論的な認識によって決定不可能な霊魂の不死,神の存在といったことどもを,自由な人格による行為が有意味であるために不可欠の〈実践理性の要請〉として立てることが可能になる,とカントは考えるのである。

 カントは,このようにして,ニュートン物理学に代表される近世の数学的自然科学の学としての存立の根拠を明らかならしめ,ヒュームによる形而上学的認識への懐疑からも多くを学びながらそれにしかるべきところを得せしめ,さらに,ルソーによる自由な人格をもつ自律的人間の形づくる共同体の理想をいわば内面的に掘り下げ,西欧形而上学のよき伝統と媒介せしめる。ここに,人間の知のすべての領野を,近世の自由で自律的な人間理性の上にあらためて基礎づけるという作業が,人間としての人間とその環境世界の具体的日常的あり方へのカントの生き生きとした関心に支えられて,ひとまずの完成をみる。 カントの哲学が,その後フィヒテからヘーゲルにいたるいわゆるドイツ観念論からさらには現代哲学のさまざまな立場の展開にかけて,たえず大きな影響を及ぼしつづけて今日にいたり,日本においても,とりわけ明治後期から大正時代における新カント学派の移入このかた,大きな影響を及ぼしているのは,以上のような彼の哲学の性格のゆえと考えられる。

坂部 恵

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