不連続的差異論とベルクソン/ドゥルーズの差異

不連続的差異論とベルクソンドゥルーズの差異


[叡智学] 不連続差異論ベルクソンドゥルーズ的差異

ベルクソンのいう異質的多様体とは、連続的差異時間である。しかし、不連続的差異論は、90度回転を説き、ガウス平面を考える。i軸上で、差異が連続化するように見えるのである。そして、これが、ベルクソンの異質的多様体であろう。差異=微分の連続体の多様体である。そして、ドゥルーズはこれを採用し、ニーチェの特異性=強度と結びつけようとした。しかし、これは樫村晴香氏が慧眼にも批判したように、折衷である。そして、ODA ウォッチャーズ氏と私は、不連続的差異論を仮説して、ドゥルーズ哲学の矛盾を解決したと言えよう。つまり、イデア界の不連続の差異を肯定して、プラトンに回帰したのである。私見では、ドゥルーズではなくて、フェリックス・ガタリがこの不連続的差異論に近いのである。ドゥルーズガタリを切断して考えたいと思っている。アカデミズムでは、ガタリを排して、ドゥルーズをもちあげているが、それは、ドゥルーズの方が反動性があるからだろう。とまれ、ベルクソンとの比較で、不連続的差異論がより明快になっただろう。


[叡智学] ベルクソンドゥルーズ

次の引用から、ドゥルーズは差異=微分をどうやら樫村氏が述べたようにベルクソンから引き出したように思えた。

「1. 多様体と展開

われわれの議論に入る前に、『試論』においてきわめて重要な概念として登場する「多様体」と「展開」について確認しておきたい。ふたつの多様体と呼ばれるのは、一方は等質的なhomogene境域における相互に外在的な諸項の並置からなる多様体であり、他方は諸項が区別されない連続的継起的な変化であるような「質的差異化の原理(DI 71)」である。後者が異質的heterogene多様体と呼ばれる。これらが、<>、<>について区別されるふたつの多様体であることに注意していただきたい。「区別するという言葉のふたつの可能な意味を、一方は質的で他方は量的な同と他とのあいだの差異についてのふたつの概念を、認めねばならない(強調引用者、DI 90)」のである。<>についての規定に関しては、ここでは、その「判明さ」による規定をあげておこう。

等質性とは、「判明な諸項の並置(DI 95)」からなる「判明な多様体multiplicite distincte (DI 59, 86, 90, 91, 92, 170 etc.)」である。これに対し、異質的多様体における差異とは、「それが一なのか多なのかをも言うことができないようなぐあいに、またそのような見地から検討すればただちにその本性を逸してしまうdenaturer ようなぐあいに、お互いに混じりあっている(DI 102)」、このような仕方での差異であり、「その各瞬間は数的多数性を構成せず(loc.cit.)」、「不分明な形のもとに(loc.cit.)」捉えられる「不分明なindistincte多様体(DI 78, cf.DI 89)」、「錯雑なconfuse多様体(DI 65, 96)」である。これらふたつの多様体はこの意味でそれぞれ本性を異にしており、両者の間には本性の差異があるということができる。

ついで、「展開」という用語に関して触れておく。『試論』においては、展開developper, deployer, deroulerといった語群によって、相互外在化exterioriser・並置化juxtaposer・固定化fixer, solidifier等……一言でいえば、異質的多様体の、等質的多様体への<>が考えられている。念のため述べておけば、この用語法(「展開」)は、ベルクソンのテクストによって十分に支持されるものである(cf. DI 55, 74, 76, 89, 91, 92, 94, 98, 104, 122, 132, 149, 165, etc. )。異質的多様体においては、諸項は相互浸透していて、判明な・数的な複数性を形成しないにもかかわらず、ひとは「時間を空間内に展開する developperという深く根を下した習慣(DI 91)」を有していて、「われわれが質的多様体と呼んだものを、数的多様体の形のもとに、空間内に展開deployer (DI 92)」する傾向のうちにある。結局「あらゆる判明な多様体は空間内に展開されることun deroulement によって得られる(DI 89)」ものにすぎない4。ベルクソンが『試論』において主題化しているのは、ふたつの多様体の間の本性の差異を越境する、この脱本性的な展開(< >)なのである。そして両多様体の<>は、まさにこのように異質的多様体がたやすく展開され・<>を蒙るものであることに存している。 」

以下から
http://www.hum.fukuoka-u.ac.jp/~hiraiya/bergson/bergson1997.html

 ここで、ベルクソンは、等質的多様体と異質的多様体に分けているが、前者は量的で、不連続的であり、後者は異質的であるが、連続的である。そして、前者が空間、後者が時間に当るだろう。そこで、思うに、ドゥルーズは差異を後者から取り出したのである。つまり、連続的異質的多様体から、差異=微分を取り出したのである。樫村晴香氏の推論ないし考察は正鵠を射ていた。結局、ドゥルーズの差異論は樫村晴香氏が説くように、ハイデガーベルクソンの系譜をもつのであり、他面のニーチェの特異性=強度の系譜とは異なるのである。
 さて、不連続的差異論(不連続差異論)は、不連続的異質的多様体を扱うとは言えるだろう。あるいは、異質的不連続多様体である。ベルグソンより、深く、高いのである。やはり、ゼロ度の問題である。境界の問題である。ベルクソンは境界ゼロにしているのだ。不連続的差異論(不連続差異論dd論)は、四分の一回転によるガウス平面の出来事を見ている。i化である。
 
 ところで、x軸とz軸をどうするかの問題がある。こういうことではないか。x軸(実数)において、差異が不連続的に共立する。しかし、90度回転して、y軸(虚軸、i軸)において、それらは、xーz平面では差異は重なるだろう。これが近似的連続化だろうか。これについては別稿で検討しよう。