イデア界、破壊本能、共存本能:差異共存体経済

[叡智学] イデア界、破壊本能、共存本能 2:差異の共存


差異の共存を現実化するには、どうすればいいのだろうか。これは、連続体である関係を破壊して、新たに差異の共存の関係を形成することだと思われるが、特異性の差異を肯定することから始めないといけない。ここから、差異の共存・共立が生成されうる。思うに、企業の生産であるが、発展的な生産とは、差異の共存に因る側面が大きいだろう。そして、差異の共存体は、別の差異の共存体と共存するようになるだろう。つまり、差異の共存の共存が生起するだろう。これが、豊かな、積極的な生産と消費の社会を形成するだろう。つまり、企業が、差異共存体となり、それが、他の差異共存体と共存するのである。ここでは、破壊衝動は共存本能と結びついて積極的表現を取るだろう。これが、おそらく、脱資本主義・ポスト資本主義のヴィジョンである。つまり、根源のイデア界回帰衝動である破壊/共存本能を差異共存体の構築、さらに多差異共存体の共存の構築へと向けることである。企業はイデア界的差異共存体となり、社会・世界は、イデア界的差異共存体の共存体となるだろう。資本主義経済から差異共存体経済への転換である。


[叡智学] イデア界、破壊本能、共存本能 1


 まず、イデア界への回帰本能・衝動があるとしよう。これは、身体的な衝動として表出しよう。衝き動かされるのである。(衝き、憑き、突き、点き、月)そして、多様な表出があるだろう。宗教、芸術、哲学、祭等の積極的なもの、そして、殺人、自殺、戦争等の暴力といった破壊的なもの(ベンヤミンの「正義と法的暴力」については後で検討)。
 では、共存本能との関係は何か。これは倫理・社会衝動であるが、ある種後天性が強いのではないか。つまり、造られるものではないか。しかし、イデア界の共感性を述べてきたのだから、やはり、先天性は否定はできないだろう。では、イデア界の共感性とは何か。それは、差異の共存性ではないか。差異の不連続的共存・共立性ではないか。ならば、共存衝動・本能は、本源的なものとなろう。ここで、アンチノミー(二律背反)に達した。破壊本能と共存本能とのアンチノミーである。しかるに、両者はまったくの別物ではないだろう。どちらも、イデア界回帰本能である。ニーチェが説いたディオニュソス衝動とほぼ一致するだろう。これは、強度と言ってもいいだろう。思うに、イデア界回帰本能は、破壊本能と共存本能との二通りの表出様態をもつのではないか。あるいは、両極的本能と言えるかもしれない。つまり、破壊/共存本能である。そう、善悪の彼岸とも言えるだろう。(ニーチェの説いた力の意志とは、ほぼこれであろう。)問題は、この破壊/共存本能であるイデア界回帰衝動を、積極的に活かすあり方を構築することだろう。これが、本来、政治(まつりごと)の意味ではないか。破壊衝動は、反共存的現象体制に向けるべきであろう。そして、共存本能は、生的社会の構築に向けるべきだろう。思うに、今日、現代、破壊衝動が、反共存性に向けられている。破壊衝動の積極的表出が必要である。
 しかし、反共存性的傾向とは、ある種原因があるだろう。つまり、当事者はなんらかの反共存的暴力を受けているのではないか。過労や借金や失業やいじめやその他の暴力が原因としてあるのではないか。そう、資本主義は、貨幣利潤暴力に突き動かされている。つまり、資本主義と破壊衝動は結びついている。つまり、資本主義には、共存本能は乏しいのである。貨幣利潤暴力とは、共存本能を無視した破壊衝動である。つまり、歪んだ偏ったイデア界回帰衝動である。いわば、反動的な衝動である。この暴力は、当然社会、人間に歪みを与える。つまり、破壊衝動の連鎖がある。(たとえば、テロリズムへの憎悪とか北朝鮮憎悪の爆発は、そのような破壊衝動の噴出だろう。そう、ルサンチマンである。)ということで、資本主義は、貨幣利潤暴力という破壊衝動が社会を満たすのである。そして、これが、諸破壊衝動として表出されるだろう。
 だから、問題は、破壊/共存本能を活かす方法を見つけることだろう。資本主義は、この原初本能をゆがめて、社会に破壊衝動を蔓延させる(万人の万人に対する戦争)。イデア界の共存強度を活かさないといかない。では、どうやって。新しいマツリが必要であろう。差異の共存を肯定するマツリ。また、差異の共存としての社会の構築。具体的な検討は別稿にしよう。


[備忘録][叡智学] フロイト死の欲動と差異の強度


 最近の殺人事件や自殺の多さや戦争等を見ると、フロイト死の欲動(本能)の概念の正しさが証明されているのではと思う。確かに、危険な目に会う人に対して、共存本能がはたらく。死の欲動と共存本能との矛盾が人間にはあるだろう。しかし、倫理・道徳として、後者が強調されすぎたように思うのである。やはり、人間には倫理を超える死の欲動があることを認めなくてはならないではないか。戦争も死の欲動によると言えるのではないか。犯罪もそうだろう。自己中心主義もそうではないか。これは、破壊の本能であり、思うに、イデア界への帰還を望んでいるのではないか。つまり、イデア界への帰還欲動が人間にはあるのだろう。それが、破壊衝動として現れるのではないか。また、同時に、共存本能もあるが。しかし、ここでは、死の欲動に注視しよう。これを積極的に表現しない限り、破壊が常に起こるだろう。バタイユの蕩尽論は、死の欲動論だろう。とまれ、これをなんらかの形で発散させないと、暴力衝動が高まる。性善論ではだめである。おそらく、新しい祭(マツリゴト)が必要なのであろう。資本を戦争に蕩尽するのでなく、新たな祭に消尽すべきだ。カーニバル? ディオニュソス祭? そう、イデア界祭であろう。不連続差異の祭? これについては後で、考察。 

p.s. これまで、精神分析学に対して批判的であったので、不連続的差異論からの把握が必要である。また、バタイユのエロチシズム論に対して批判的であったので、ここで、整理する必要がある。「死の欲動」論やバタイユのエロチシズム論(死に至るまでの生の高揚)であるが、その場合の「死」とは、現象破壊、社会破壊、人間破壊、自己破壊等の破壊一般であり、バタイユの説く不連続体から連続体への回帰ではなく、逆に、連続体から不連続的差異、イデア界への解体を意味するのではないだろうか。すなわち、イデア界的回帰本能・衝動・情動である。
 では、これとプラトンイデア論とはどうつながるのだろうか。また、共存本能と破壊本能との関係はどうなのか。これらについては、別稿で検討しよう。