アメリカ英語とイギリス英語の違い

[備忘録][言語][文化] アメリカ英語とイギリス英語の違い


イェルムスレイの表現=内容論(ガタリドゥルーズが説いていた)からするなら、両者は意義が違うのである。米英語は、身体的であるのに対して、英国英語は、精神的である。思うに、米英語とは、意外に「東洋」化しているのではないだろうか。もし、アメリカが「東洋」化しているならば、アメリカのキリスト教とは何であろうか。「東洋」のキリスト教。おそらく、アメリカのキリスト教は表象であり、本体はカオスモスではないのか。つまり、カオスモスアメリカ人はキリスト教としているのではないか。つまり、潜在意識と表象/イデオロギーとが矛盾しているのではないか。つまり、カオスモスの仮面としてのキリスト教となっているのではないか。それはきわめて粗雑ではあるが、カオスモスを米国人は的確に捉えていないように思う。そう、たとえば、日本人の多神教天皇制やナショナリズムに利用されるようなもののように思えるが。つまり、強度の問題である。身体強度が、連続/同一的意識化されて、キリスト教ナショナリズムになると言えよう。米国のキリスト教を不連続化したとき、それはカオスモスイデア界化して、多元化するだろう。一元的グローバリズムが、多元的グローバリズムに変容するだろう。脱アメリカ・キリスト教

p.s. アメリカ文学・文化における潜在意識と表象意識との分裂については、D.H.ロレンスが『古典アメリカ文学研究』(講談社文芸文庫)で、天才的に洞察している。つまり、アメリカ人、アメリカ文化とは、潜在意識が「東洋」であるのに対して、表象意識が反「東洋」的である。「東洋」に敵対的である。つまり、自己分裂しているのがアメリカ人、アメリカではないか。それは、「東洋」と「西洋」との自己分裂・齟齬であろう。つまり、アメリカ人、アメリカには、「東洋」が内在・潜在しているのであるが、それを自己攻撃するのである。この自己矛盾が結局、アメリカの覇権主義へと外化されるのだろう。イラク侵略とは、実は、アメリカ人、アメリカ内部にある「イラク」=「東洋」への攻撃であるだろう。そう、これもロレンスが説いていた(『現代人は愛しうるか:黙示録論』中公文庫)が、ヨハネ黙示録にある善悪二元論とは、この「東洋」=「コスモス」=カオスモスの破壊を目指しているのであり、正に、ヨハネ黙示録の現実化・具現化がアメリカ人、アメリカであろう。キリスト教原理主義である。アメリカの本体を知りたければ、ロレンスの上述の二著を読むべきである。

p.p.s. ネイティブ・アメリカンの宗教、アメリカの地靈の存在があるだろう。ネイティブ・アメリカンの「心」の宗教。ところで、最近、先住民の年代が5万年前とされて、従来の移住説が成り立たなくなった。

cf.
http://www.godsimmediatecontact.org/kannon/news/no96/b-5.htm

p.p.p.s. 映画『フィールド・オブ・ドリームズ』が、アメリカの地靈を描いているだろう。トウモロコシ畑とは、アメリカ・インディアンの土地そのものを意味しよう。(トウモロコシは、日本人にとって稲がそうであるように、神である。)大リーグ野球とは、いわば、アメリカ・インディアンのゲームでないか。ベース・ボールのベースとは基地ではあるが、それはまた基礎であり、根拠である、大地であろう。アメリカ・インディアンはグレート・スピリット(大靈・太靈)を信仰している。大地の宗教である。大地のボールとは何か。ボールとは魂(玉しい)ではないか。大地の魂の儀礼としてのベース・ボール、大リーグ野球。日本プロ野球は、日本の大地の魂(靈性)をとりもどすべきだろう。

4p.s. もし、アメリカ人、アメリカがそのように矛盾齟齬分裂しているならば、上層のキリスト教=資本主義を解体するのは意外に簡単かもしれない。そして、下層・本体のカオスモス=「東洋」をむき出しにすれば、ポスト・キリスト教=ポスト資本主義となるだろう。カオスモス経済、イデア界経済、不連続差異的経済である。

5p.s. サイードの「オリエンタリズム」であるが、それは、p.s.で述べたアメリカ人、アメリカの自己分裂とつながるだろう。「オリエンタリズム」とは、結局、西洋人の自己分裂・矛盾・齟齬である。つまり、一神教のそれである。それは自我主義・エゴイズム・自己中心主義であり、カオスモス、根源、生命を破壊するのである。イデア界を否定・廃棄するのである。正確に言えば、「オリエンタリズム」とは、近代西欧主義ないしキリスト教的文明主義であろう。

6p.s. イスラーム教の問題がある。それは確かに超越神、一神教、絶対的一神教であるが、私見では、イスラーム教は、イデア界に近いものをもっている。つまり、多元的な性質をもっている。つまり、多元性を一神教で包んでいると思う。多元論=一元論である。そう、スピノザ哲学に近いと思う。だから、一神教性を不連続化すれば、不連続的差異論(不連続差異論)に変換するだろう。アッラー(アル・ラーということ?)を、イデア界にすればいいのだ。

7p.s. そうすると、アメリカ・キリスト教イスラーム教は意外に似ているのだ。両者とも、多元性、不連続差異性、イデア界性を内在・潜在させているのだ。似た者同士なのだ。近親憎悪とも言えよう。とまれ、一元論性、連続性を不連続的に脱構築すること。