フェリックス・ガタリを読む:『分裂分析的地図作成法』(紀伊国屋書

[備忘録][叡智学] フェリックス・ガタリを読む

まだ、先のことになるが、ガタリを読む必要があるように思える。ドゥルーズ哲学は残念なことに差異=微分に貫徹されているようで、特異性=差異の問題が深まっていないと思われる。だから、未読のガタリの単独の著書を検討していこうと思う。

http://earthday.jp/modules/newbb/viewtopic.php?post_id=126&topic_id=38&forum=7
http://www.revue-chimeres.org/guattari/guattari.html
http://www.shikanda.net/general/gen3/guattari/felix.htm
http://www.nettime.org/Lists-Archives/nettime-l-9710/msg00015.html
http://webpages.ursinus.edu/rrichter/stivaleintro.html
http://www.sciencedaily.com/cgi-bin/apf4/amazon_products_feed.cgi?Operation=ItemLookup&ItemId=0631197087
http://www.tajima-inc.co.jp/Japanese/philosofia/Felix/Felix.html
http://www.saysibon.com/NOMS_daut/noms_D_J/GUATTARI_Felix.html
http://www.asahi-net.or.jp/~uv3k-kmgi/gatari.html

上の最後のURLからの引用


「解説

主体性が新たな「機械への依存」を強化しつつあるというのが ガタリの問題意識である。このような主体性は、人間が機械と新しい相互的なつながりを作っていくことによって作られるというのが、ガタリの見通しである。それをガタリは「機械に入ること」と表現している。
そして、ガタリは、機械に入ることが決して新しい行為ではなく、すでに中世においても「修道士機械」があって、そこに人々が入っていったのだと説く。
しかし、本書でのガタリの議論に接していると、今思想の世界で問題になっているカルチュラル・スタディーズの問題意識とつながりがあることが感じられる。それは、主体性、もしくはアイデンティティが、何らかの中核のようなモノを基盤にして形成されるモノではないという認識である。ガタリが機械と読んでいるモノは、カルチュラル・スタディーズにおいて、「メディア・カルチャー」といわれているモノとつながっていると考えられる。(この場合の「カルチャー」は「文化」という意味をほとんど失っていて、「環境」を意味している)
もちろんのことであるが、主体性はあらかじめ与えられているものではない。それは形成され、「生産」されるモノである。それは現代においては、「情報・電子伝達的な主体性の生産」が求められている。また現代の主体性は、新しい環境の中で生産される。したがって、「機械環境と自然環境との関係において人間を根本的に位置づけ直す」ことが必要になってくる。
現代は「地球規模の情報化の時代」であり、そこにはマスメディアとテレコミュニケーションの発達、新素材の多様化、マイクロプロセッサーによるデータ処理、生物工学の発達といった特徴を認めることが出来る。(ガタリは常に「4」という数字にこだわる。ここでも4つの特徴が列挙されているのであるが、それは伝統的な二元論に対する批判の象徴的な数である)
そのような様々な要素が、人間と環境との新しい関係の設定を求める。ガタリのいう「地図」とは、主体性が生産される環境としての場のことに他ならない。ガタリの新しい主体の生産の環境を考える前に、今まで主体性の生産がどのように考えられてきたのかについて述べ、それを批判する。批判の対象はまず何よりも精神分析的な主体性の生産である。それは基本的には、フロイトラカンの主体性の生産が、還元主義だという批判である。簡単にいってしまえば、彼らのいう主体性は幼児の体験に還元されるモノに過ぎない。フロイト旧約聖書ラカン新約聖書聖典とする精神分析が、主体性の還元主義であるという批判である。
すでに述べたように、ガタリのいう機械は通常の意味での機械ではない。「・・・だだしその機械は、最近の SFが想像しているような専制的な巨大機械ではなく、粉末状で分子的な機械状多様体としての機械である。」「抽象的・脱テリトリー化的・非物体的であると規定された機械」である。
ガタリは機械と構造とを対立させている。「構造は外部から決定され、受動的」である。
サルトルが主張した存在と無の二元論も批判の対象になる。サルトルの二元論に対して、ガタリは、「限りなく多様な諸々の実存的強度」という考えを示す。また、「延長的ではなく、強度的な関係が問題」強度によって存在しているモノは「機械」ということになるが、ここでの機械はもちろん通常の意味での機械ではなく、「自己秩序化されてもののシステムの中に強度的な差異化が挿入されている」モノでなければならない。
「強度」という概念はきわめて難解であるが、それは単に異質なモノが入り込んでいるというだけでなく、「異質生成の働き」が存在するモノでなければならないだろう。このような機械がどのようなモノであるかをさらに展開したモノが、地図作成法の三つの次元である。それは「排他的であると同時に共存しうる関係の領域」であり、「表現と内容の関係に関わる領域」であり、「美的・宗教的な非意味形成の領域」である。それはロゴスの論理が無効になる世界であり、「二つの矛盾する命題」が対立するモノではなくなってしまうような地図である。
実存主義構造主義の二元論に対してガタリが提示する「機械」の概念は、いうまでもなく多元的・多次元的である。そこでなされる主体性の生産は、当然の事ながら「本質的出た中心的なプロセス」になる。精神分析に単する批判においても、ガタリは「精神分析が機能されている表現の構成要素を複数化し差異化する」ことを求める。このような考え方には少なくとも二つの源流を認めることが出来る。ひとつはイェルムスレウの言語理解であり、もうひとつはバフチーンの考え方である。
ひとつは、シニフィアンシニフィエからなるモノとしての記号という伝統的な考え方に批判的である。シニフィアンシニフィエという対立概念では、両者の関係が断裂されたままになっているからである。イェルムスレウの言語理解では、ソシュールシニフィアンシニフィエに対応する概念として「内容・表現」がある。これは対立概念ではあるが相互に断絶したモノではなく、ガタリが「内容と表現が交叉する」と書いているように、相互の境界領域が不確定なモノであるとされる。またバスチーンのポリフォニーの概念がしばしば用いられていることはいうまでもない。
「存在と意味のリトルネロ」の章は、そこまで理論化されてきた、新たな主体性の生産の場としての「異質生成」を、具体的なレベルで考えようとしたモノとみることが出来る。ガタリが試みたのは「夢」という素材を使っての考察である。ガタリは「夢による意味作用の歪曲化は、もはや深層内容の解釈に依存するモノではなく、完全にテクストの表層にある機械状のモノに関与している」と書いている。そこに、「創造的な機械状の連鎖の多種多様な能動的生の世界の全て」が存在していることを確認する。
リトルネロと実存的情動」の章で、「我々は、イェルムスレウによって、実質と素材の異質性によって支えられている表現形式と内容形式の間の根本的な可逆性を知った。しかしバフチーンからは、言表作用の折重ね、そのポリフォニー、その多中心性を読みとることを学んだ」「表現形成素の形式が内容形成素の形式と同一であることを措定するにいたったイェルムスレウの分析から、あらゆる帰結を引き出さなければならない。このように、内容と表現が交叉するところに脱テリトリー化された同一の機械状のモノがあることを肯定することによって、全ての構造主義的な二元論は完全に無効となる。」表現と内容が交叉しているというのが、イェルムスレウの言語理論の中からガタリがとりだしてきた重要な論点である。
情動とは、相互に力が掛かるということである。能動が受動を生み出し、受動がさらに能動になっていく。その関係がアジャンスマンであり、機械である。
このような場において生産される主体性は、伝統的な意味での主体性とは全く異なっている。「主体化は、盛んに活動をしていても、復元できないほど断片的で、絶えずずれを生じている」からである。
ジュネの文学に触れて、「現実的なモノと想像的なモノと創造とを互いに分離された審級にするのではなく、それらが互いに生成し合うようにする何か」
いずれにしても、ガタリのいう機械はリゾームであり、アジャンスマンである、カオスモードである。」


「分析的地図作成法

言表作用のアジャンスマンアジャンスマンを以下鎖列とする)
無意識という概念のぬかるみにはまりこむのを、出来る限り避けるため。それはまた、主体性の様々な行為を、衝動、情動、主体内の審級、主体相互の関係に還元しないためでもある。
もはや主体性は、自分自身との目がくらむような一致を(ただ神だけを証人として)探求する主体の、はかり知れず微妙で言い表せない本質とは関係がない。分裂分析的な主体性は、記号の流れと機械状の流れとの交叉点において、意味の諸々の行為、物質・社会的な諸々の行為の十字路において、とりわけ、それらの行為の様々な様態の鎖列から生ずる変形の軌跡の中に作り出される。ここに挙げた変形が主体性から人間的テリトリー性の性質を失わせ、それを最も根源的であると同時に最も未来的な特異化のプロセス− 動物、植物、宇宙への生成変化、未熟、多価値への生成変化、非物質的なモノへの生成変化など−に投射する。いまやこの主体性によって、考える葦であり続けてきた人間は、自分のために考える葦、すなわち今までの可能的なモノを遙かに越えて人間を導く抽象的な機械状の門に隣接している。
言表作用のアルカイックな形態は、本質的には、話し言葉と直接的なコミュニケーションとに依存してきたが、新しい鎖列は、機械状の伝達手段によって運ばれるマスメディアの情報の流れにますます頼るようになる。(技術だけでなく、科学、社会、美的な領域による)〜人間のモノではない、機械装置や手続きに依拠して、直接的な意識的制御をほとんど免れた記号的な複雑なモノを扱う。
様々な意識があり、それが並列したり、弱まったり、全面にでたりとするが、それは、還元的に自己に帰っていくモノでなく、絶えず、様々な情報と結びついている。そして、その情報は、記号で、抽象的なモノであるが、社会的構成、テクノロジー、芸術、科学と共に発展しながら、無意識の構成成分や偶然の出来事を事の地図を作成している。」

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p.s.

やはり、不連続的差異論に近いのは、ドゥルーズではなくて、ガタリである。どうも、ドゥルーズガタリを切断しないといけないのではと感じている。たとえば、マルクスエンゲルスであるが、両者にも切断があるだろう。両者を一体とすると、レーニンのようになるだろう。不連続的差異論から言えば、『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』とは、「欲望する諸機械」や「器官なき身体」あるいは「リゾーム」ということで、絶対的多元論を説いているので肯定評価できるのである。そして、これは、読んだとき、強く感じたのであるが、ガタリの主導性である。そして、ガタリドゥルーズにすべきであることを。ガタリドゥルーズの間には、断層、差異、分裂がある。ガタリ的不連続的多元論とドゥルーズ的連続的差異論を区別できるだろう。そして、前者と不連続的差異論との関係が検討されねばならない。

p.p.s. 「アジャンスマン」(英語で言うと、アンサンブル)を「鎖列」と訳しているが、一見よさそうだが、これは集合体であるが、不連続的な集合体だから、離列体、共立体、分立体、連列体とかにすべきではないだろうか。