境界問題 6:差異とコーラ、 境界問題 5:メディア界の

[叡智学] 境界問題 6:共感性又は交通感性とは何か:差異とコーラ


 通俗的に言えば、一体感とかであるが、しかし、ほんとに一体化しているのだろうか。強いて言えば、差異的な一体感であろう。差異、特異性が前提にある。これは強度的である。つまり、イデア界の強度をもった差異、特異性である。これはいわゆる宇宙的感性である。絶対的感性である。今ここに限定されない、イデア界的感性である。ここから生まれる「共感性」とは、結局、イデア界の差異と差異との境界交通から生じるだろう。これまでは、これをゼロ度と考えてきたのである。おそらく、差異交通(差交)感性とでも言うのがいいだろう。これを共感性と呼んできたと思う。この差交感性が、現象界において発現するのである。これは、通俗の愛とか、純愛とか、恋愛とは全く異なる。それらは現象界言語分節に閉塞した感性に過ぎない。それは、現象界限定である。有限である。しかし、差交感性(共感性)とは、無限的、イデア界的、不連続差異的である。それは、差異強度交通感性とも言えよう。ゼロ度でなく、差異強度「度」である。強度交通である。これは、強度交換ないし強度交感だろう。つまり、差異強度は相互にイデア界を交通するのだ。強度力自体が伝搬するのだろう。喩えれば、磁気や電磁波や重力のように。差異強度1と差異強度2とが交通する。差異強度1/2である。差異の差異である。電気でいうと、100ボルトと200ボルトの「差異」があるとしよう(ほんとうは、エネルギー量であるが)。これを、引き算して、100−200=−100ボルトでは、連続量となる。そうではなくて、100−200のままである。差異の差異としての強度がここに作動しているのではないか。ドゥルーズの言うような共鳴ではない。差異と差異との特異性交感だろう。そう、アナーキストシュティルナーが言ったような唯一者と唯一者との「連合」に近いと思う。たぶん、特異性という普遍性、共通性があるのだ。特異共通性、特異普遍性、特異共通強度があるのだ。これで、差異1と差異2とがいわば「共感」するのではないだろうか。
 では、この特異共通強度、特異普遍強度とは何か。それは、イデア的共通強度、イデア的普遍強度であろう。この共通・普遍強度で、差異1と差異2とが「連結」するのであろう。これは、差異強度とは別の母胎、共通基盤、容物の強度である。これを原強度、元強度、母強度等と言えるだろう。すると、イデア界は、原強度と特異差異強度との二種類の強度があることになろう。とまれ、原強度とはいわば、根源的民主主義、山川草木鳥獣虫魚悉皆成仏的である。そして、思うに、プラトンのコーラとはこの原強度、母強度を指すのではないだろうか。つまり、イデアとは差異、不連続差異であり、その容物として原強度の海=コーラがあるのではないだろうか。


p.s. 原強度=コーラとは、ゼロ度と言えるかもしれない。しかし、ゼロ度ならば、差異と差異とは接触してしまい、不連続的差異ではなくて、連続的差異=微分となろう。だから、ゼロ度ではない。差異を差異としての分離併存させる力。特異普遍強度。特異強度普遍空間。特異普遍空間。原強度空間、原強度母空間。これは、ゼロとか実数の世界ではないのだ。やはり、一種虚次元、虚界であろう。iとしての、虚数の世界だろう。つまり、イデア界とは、虚界、虚次元という普遍空間をもち、これによって、不連続差異不連続差異とは交通できるだろう。虚次元という原強度の境界によって差異交通がなされるのだろう。ならば、イデア界とは、虚次元的境界をもつ差異空間となろう。しかし、イデア界自体が虚界である。ならば、虚界の虚界で、原虚界であろう。これでは煩雑なので、虚次元、虚境界をもつ差異空間としてのイデア界だろう。ならば、差異1/i、差異2/i、差異3/i、・・・差異n/iというように表記できるのではないだろうか。i という共通交通次元があるのである。これまでの哲学・思想は、 iをゼロ度にしてきたのである。共感性という言葉もそれを示唆する。ところで、i的交通に一番近づいたのは、意外にも、アナーキストシュティルナーでなかったかと思う。ただし、連合、統一という連続化、同一化に陥ってしまった。柄谷行人も結局ここに留まったのである。

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[叡智学] 境界問題 5:メディア界の構造


私は、巴(三つ巴)の紋に、不思議なものを感じる。なぜ、根源は三元論的なのかと。神秘学では、常に三元論である。ラカン精神分析では、ボロメオの輪、三つ輪を考えている。現実界想像界象徴界。これは、イデア界/メディア界/現象界と類似的である。しかし、ここでは、イデア界の三元論性を考えている。ODA ウォッチャーズ氏のように、A, ~A, ~Aand~~Aという三元論性があるだろう。これは、大乗仏教的である。私が考えた三元論性とは、垂直/水平性、±極性性、差異自体のそれである。これは、差異の構造性であり、前者の三元論性と通じるものがあるだろう。では、問題はメディア界である。これは、中間界であり、一方ではイデア界に、他方では現象界に接している。つまり、不連続性であり、連続性である。つまり、不連続性と連続性との一種ハイブリッド性、混成性があるだろう。これは、イデア界を3、現象界を1にするなら、3+1であろうか。数値よりは、考え方の方が重要だろう。単純に言えば、メディア界とはイデア界の差異と差異との境界性のことだろう。この境界性を例えば、ゼロ度と偽装することで、現象界性が生じるだろう。これは、おそらく、原分節性に要因があるだろう。境界をゼロにして、連続化するのである。これは、思うに、カントの先験的形式と関係するように思う。つまり、人間の意識=脳構造には、先験的形式=構造=原型性があり、それが、差異と差異との境界をゼロとして見て、連続化する先験的表象性をもっているのだろう。例えば、星の集まりを星座と見るイメージ形成力・造形想像力がそうだろう。点の集合を、像に見ること、不連続の画像を連続画像と見てしまうこと等。そして、近代科学は、この連続表象性と結びついている。とまれ、ここで、不連続差異界/差異境界/連続表象界と換言できる。そして、すぐれた芸術は、差異境界を表現するものだろう。つまり、一方では、連続表象界であり、他方では不連続差異界である。例えば、マグリットのグランファミールがそうである。ならば、メディア界の数は2でいいのかもしれない。すると、3/2/1となるだろうか。

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