境界問題 2

[叡智学] 境界問題 2:差異と差異との境界強度


 差異1と差異2との境界強度とはいかなるものであろうか。さらに、イデア界全体の強度と個々の差異強度とはいかなる関係にあるだろうか。まず、前者について見ると、差異強度の相互構成に関する理論がなくてはならないだろう。これまでの検討から考えるならば、垂直/水平強度と±極性強度との二元性の力学によって、境界強度が形成されると言えよう。差異強度1と差異強度2との共立連結によって、境界強度が形成されるだろう。では、後者はどうだろうか。これは、前者から敷延すれば、いいように思えるが。無数の差異強度の共立連結総体強度がイデア界の強度であろう。ところで、ドゥルーズの言うセリー(系列)とは、差異と見ていいのではないだろうか。差異1はたとえば、差異強度1の多様な様態をもつだろうから。差異1は、だから、セリー1であろう。そして、イデア界全体は無数のセリーの共立体であろう。
 ここで唐突だが、私が小学生低学年の頃見た実に不可思議な夢のイメージを想起する。微粒子の集まりが無限に変容しつつ血流のように流れてゆくのである。次から次へと他と連結して無際限に変化流動するのである。リゾーム(地下茎)どころの話ではないのである。もう何十年も前のことなので、全体像は忘れているが、そう印象は、思うに、イデア界における無数の差異の無際限の変容に通じるのではと推測するのである。そう、確か、その血流のような無際限の変容とは、私と別個のものではなくて、私自身がその無際限な変容の流れそのものなのである。もし、それが正しいならば、人間とは、「私」とは、イデア界そのものではないのか。イデア界全体を生きているのではないか。ならば、死とは、なんであろうか。この有限の現世とは言え、これは、実は永遠不滅のイデア界全体の発現なのではないのか。イデア界全体の発現・表現・現象としての有限性ではないのか。ここで、キルケゴールの哲学や無限論や神人論が想起される。しかし、要点は不連続的なイデア界ということである。

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