境界問題 1:差異と差異との境界

[叡智学] 境界問題 1+補足


以下は、次のURLのp.p.p.s. のを一部修正し独立させたものである。
http://blog.melma.com/00122700/20041204041043
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水平共感力とは、ODA ウォッチャーズ氏の考えから言えば、半回転、i化であろう。つまり、簡略に図示すれば、垂直強度が強い場合、つまり、不連続的差異として独立して存在している場合は、

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 |    |    |    |    | ・・・ | 
差異1  差異2  差異3  差異4  差異5   差異n      
垂直強度が強いときは、このように、差異同士は分離している。正に、不連続的差異である(縦線は三本ではなくて、一本として見る)。しかし、水平強度が強いときは、

____ ____ ____ ____ ____・・・ ____
 
差異1  差異2  差異3   差異4  差異5     差異n

となり、連続的に見えるのである。
 あるいは、次のように考えたらどうだろうか。差異1と差異2とが無限遠点で交わるとしよう。つまり、イデア界だから、差異は無限速度で動くのである。そのとき、差異1と差異2とが無限遠点で交わると想定できるのではないか。もっとも、この交点は、擬制である。交わると見えるのである。差異1と差異2との間には隙間があるのである。境界は、差異の強度の「差異」によるのではないか。
 とまれ、以上、二つのあり方を考えた。一つは、水平強度的交通(接触ではないだろう)による差異連結であり、一つは、無限速度による無限遠点での疑似交点である。思うに、ドゥルーズは、二重セリーの共鳴ということで、このような不連続的差異の「連結」を考えていたと思う。しかし、そこに、比例=微分が鎮座しているのだ。共鳴という考え方は、共振であり、そこに同一化があるだろう。しかし、交通や疑似交点には、同一化はない。つまり、あくまで、差異1のまま、差異2を反映するのであり、差異2のまま、差異1を反映するのである。ならば、この不連続的相互反映の媒体は何なのだろうか。あるいは、直截的交通なのか。また、強度とは何かという問題がある。強度は、差異自体にあるのか、差異と差異との間に強度が生じるのか。それとも、両者にあるのか。イデア界自体に強度があるのは当然であるが、おそらく、差異自体に強度があると見ていいのだろう。つまり、垂直/水平強度である。これは、極性的であるが、+−ではなく、「時空間」的強度である。両義的、両極的な強度であり、平面的強度である。そして、スピンを差異に想定できるだろう。垂直強度と水平強度のベクトル的回転である。そして、思うに、これが、現象界の時空間を形成する強度であろう。存在物は、この差異強度回転の連結から生じるのであり、水平化の擬制的連続がいわば生であり、垂直的分離化が死ではないか。これは、生命体に限ったことではなくて、無機物の生成にも関係するのではないか。たとえば、素粒子の生成消滅とか。
 ところで、差異に+−の極性があるとしたらどうだろうか。図示しよう。


 (+)        (+)
  |          |
  |          |
  |          |       (図1)
 (−)        (−)
 差異1        差異2


        ↓

 
(+)ーーー(−)⇔(+)ーーー(−)    (図2)

    差異1       差異2


である。図2において、差異1の右辺の(−)と差異2の左辺の(+)とが「共感」交通をしよう。しかし、これはゼロ度ではない。差異強度1と差異強度2との1/2強度の交通である。ODA ウォッチャーズ氏に倣って、四分の一回転、iの交通と言おうか。ドゥルーズが二重セリーの共鳴と言ったのは、この交通をゼロ度にしているのではないだろうか。差異1と差異2との水平交通をゼロ度にすれば、確かに、差異1と差異2とは共鳴しよう。これでは、連続となり、微分的差異となる。結局、以上の考察から見ると、差異には垂直/水平性と、±の極性性の二つの属性を強度としてもっているということになろう。おそらく、差異と差異との境界交通に、メディア界並びに現象界生成の根源があるのではないだろうか。この点に関しては、稿を改めて検討しよう。

p.s. 垂直/水平性と±極性性とは、いわば二重螺旋構成の原基ではないだろうか。前者がヒモであり、後者が二重性を形成するのではないだろうか。つまり、垂直/水平性とは、差異併存・並立・共立の力であろう。そして、その共立を±極性が貫いているということではないだろうか。では、±極性とは何か。それは、空間性ないし原空間性ではないだろうか。ならば、垂直/水平性とは、時間性ないし原時間性ではないか。つまり、差異強度とは、時間強度として垂直/水平性を、空間強度として±極性性をもつのではないだろうか。もちろん、イデア界においては、それらは、点、原点として、不可分であろう。もしこのように考えられるならば、差異とは、二元的四次元性をもつと言えるのではないだろうか。つまり、1+1=2+2である。しかし、それとは別に、差異自体が存している。だから、プラス1で、結局、三元的五次元性ともつと言えるのだろうか。そして、最小の差異の共立を考えると、5×2=10となろう。10次元性だろうか。数字遊びのようにも見えるが。超絃論とカバラの10。そして、東洋の五大。地水火風空。五輪。ペンタグラム。ところで、一番の問題は、差異と差異との境界強度である。これを稿を改めて検討しよう。


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境界問題 1:差異と差異との境界



差異と差異との共立共感性とは何か。作業仮説して言うと、強度は差異の独立性・垂直性と連結性・水平性をもつのではないか。つまり、垂直/水平性としての強度である。水平性において、差異と差異とは近接・密接しよう。しかし、垂直強度あり、それが境界強度となるのではないだろうか。つまり、水平強度により、差異と差異とは近接するが、垂直強度により、差異と差異との間には境界が生じる。つまり、垂直強度と垂直強度との干渉が境界だろう。では、共立共感性とはどうして生じるのだろうか。ドゥルーズは二重セリーの共鳴性を言っていた。思うに、水平強度とは、共感強度ではないのか。垂直強度により、それぞれ、不連続的である。しかし、水平強度により、差異と差異とが、垂直強度の境界を超えて、共感連結するのではないか。つまり、ここには一種パラドクシカルなことが生じているのであろう。いわば水平共感強度により、垂直分立強度境界を超えて、相互交通をするのではないか。境界はある。しかし、それを通って交通する。そう、ドゥルーズガタリの説いた「離接」がこれに当るのではないだろうか。差異の離接性である。しかし、これはあくまでも、不連続的である。不連続的連結・共立である。差異1,差異2、差異3、差異4、・・・差異nが不連続であり、差異1/差異2/差異3/差異4/・・・/差異nという境界を形成している。しかし、水平共感力1ー水平共感力2ー・・・水平共感力nという共感連結が生じるだろう。つまり、離接としてのイデア界が想定されるのである。黄色という差異=イデア、花という差異=イデアとが連結して、喇叭水仙が生成される?(今はここまでに留めておく。)

p.s. だから、強度とは、垂直/水平性という対極的極性をもっている。これは+と−の関係ではない。一種のゆらぎと言ってもいいだろう。独立と連結を瞬時に反復しているような感じであるが。

p.p.s. このゆらぎが、時間となるのではないか。たとえば、二つの差異の関係は楕円的なゆらぎをもつのではないか。そして、それは渦動するだろう。水平力と水平力がぶつかって、渦動するのでは。そして、それは二重螺旋的ではないか。これは、以前に言ったことだが。

p.p.p.s. 水平共感力とは、ODA ウォッチャーズ氏の考えから言えば、半回転、i化であろう。つまり、簡略に図示すれば、垂直強度が強い場合、つまり、不連続的差異として独立して存在している場合は、

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 |    |    |    |    | ・・・ | 
差異1  差異2  差異3  差異4  差異5   差異n      
垂直強度が強いときは、このように、差異同士は分離している。正に、不連続的差異である(縦線は二本ではなくて、一本として見る)。しかし、水平強度が強いときは、

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差異1  差異2  差異3  差異4  差異5 ・・・差異n

となり、連続的に見えるのである。
 あるいは、次のように考えたらどうだろうか。差異1と差異2とが無限遠点で交わるとしよう。つまり、イデア界だから、差異は無限速度で動くのである。そのとき、差異1と差異2とが無限遠点で交わると想定できるのではないか。もっとも、この交点は、擬制である。交わると見えるのである。差異1と差異2との間には隙間があるのである。境界は、差異の強度の「差異」によるのではないか。
 とまれ、以上、二つのあり方を考えた。一つは、水平強度的交通(接触ではないだろう)による差異連結であり、一つは、無限速度による無限遠点での疑似交点である。思うに、ドゥルーズは、二重セリーの共鳴ということで、このような不連続的差異の「連結」を考えていたと思う。しかし、そこに、比例=微分が鎮座しているのだ。共鳴という考え方は、共振であり、そこに同一化があるだろう。しかし、交通や疑似交点には、同一化はない。つまり、あくまで、差異1のまま、差異2を反映するのであり、差異2のまま、差異1を反映するのである。ならば、この不連続的相互反映の媒体は何なのだろうか。あるいは、直截的交通なのか。また、強度とは何かという問題がある。強度は、差異自体にあるのか、差異と差異との間に強度が生じるのか。それとも、両者にあるのか。イデア界自体に強度があるのは当然であるが、おそらく、差異自体に強度があると見ていいのだろう。つまり、垂直/水平強度である。これは、極性的であるが、+−ではなく、「時空間」的強度である。両義的、両極的な強度であり、平面的強度である。そして、スピンを差異に想定できるだろう。垂直強度と水平強度のベクトル的回転である。そして、思うに、これが、現象界の時空間を形成する強度であろう。存在物は、この差異強度回転の連結から生じるのであり、水平化の擬制的連続がいわば生であり、垂直的分離化が死ではないか。これは、生命体に限ったことではなくて、無機物の生成にも関係するのではないか。たとえば、素粒子の生成消滅とか。
 ところで、差異に+−の極性があるとしたらどうだろうか。図示しよう。


 (+)        (+)
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 (−)        (−)
 差異1        差異2


        ↓

 
(+)ーー(−)⇔(+)ーー(−)    (図2)

   差異1      差異2


である。図2において、差異1の右辺の(−)と差異2の左辺の(+)とが「共感」交通をしよう。しかし、これはゼロ度ではない。差異強度1と差異強度2との1/2強度の交通である。ODA ウォッチャーズ氏に倣って、四分の一回転、iの交通と言おうか。ドゥルーズが二重セリーの共鳴と言ったのは、この交通をゼロ度にしているのではないだろうか。差異1と差異2との水平交通をゼロ度にすれば、確かに、差異1と差異2とは共鳴しよう。これでは、連続となり、微分的差異となる。結局、以上の考察から見ると、差異には垂直/水平性と、±の極性性の二つの属性を強度としてもっているということになろう。おそらく、差異と差異との境界交通に、メディア界並びに現象界生成の根源があるのではないだろうか。この点に関しては、稿を改めて検討しよう。


p.s. 垂直/水平性と±極性性とは、いわば二重螺旋構成の原基ではないだろうか。前者がヒモであり、後者が二重性を形成するのではないだろうか。つまり、垂直/水平性とは、差異併存・並立・共立の力であろう。そして、その共立を±極性が貫いているということではないだろうか。では、±極性とは何か。それは、空間性ないし原空間性ではないだろうか。ならば、垂直/水平性とは、時間性ないし原時間性ではないか。つまり、差異強度とは、時間強度として垂直/水平性を、空間強度として±極性性をもつのではないだろうか。もちろん、イデア界においては、それらは、点、原点として、不可分であろう。もしこのように考えられるならば、差異とは、二元的四次元性をもつと言えるのではないだろうか。つまり、1+1=2+2である。しかし、それとは別に、差異自体が存している。だから、プラス1で、結局、三元的五次元性ともつと言えるのだろうか。そして、最小の差異の共立を考えると、5×2=10となろう。10次元性だろうか。数字遊びのようにも見えるが。超絃論とカバラの10。そして、東洋の五大。地水火風空。五輪。ペンタグラム。ところで、一番の問題は、差異と差異との境界強度である。これを稿を改めて検討しよう。

以下から
http://blog.melma.com/00122700/20041204041043

[叡智学] 境界問題 


差異と差異との共立共感性とは何か。作業仮説して言うと、強度は差異の独立性・垂直性と連結性・水平性をもつのではないか。つまり、垂直/水平性としての強度である。水平性において、差異と差異とは近接・密接しよう。しかし、垂直強度あり、それが境界強度となるのではないだろうか。つまり、水平強度により、差異と差異とは近接するが、垂直強度により、差異と差異との間には境界が生じる。つまり、垂直強度と垂直強度との干渉が境界だろう。では、共立共感性とはどうして生じるのだろうか。ドゥルーズは二重セリーの共鳴性を言っていた。思うに、水平強度とは、共感強度ではないのか。垂直強度により、それぞれ、不連続的である。しかし、水平強度により、差異と差異とが、垂直強度の境界を超えて、共感連結するのではないか。つまり、ここには一種パラドクシカルなことが生じているのであろう。いわば水平共感強度により、垂直分立強度境界を超えて、相互交通をするのではないか。境界はある。しかし、それを通って交通する。そう、ドゥルーズガタリの説いた「離接」がこれに当るのではないだろうか。差異の離接性である。しかし、これはあくまでも、不連続的である。不連続的連結・共立である。差異1,差異2、差異3、差異4、・・・差異nが不連続であり、差異1/差異2/差異3/差異4/・・・/差異nという境界を形成している。しかし、水平共感力1ー水平共感力2ー・・・水平共感力nという共感連結が生じるだろう。つまり、離接としてのイデア界が想定されるのである。黄色という差異=イデア、花という差異=イデアとが連結して、喇叭水仙が生成される?(今はここまでに留めておく。)

p.s. だから、強度とは、垂直/水平性という対極的極性をもっている。これは+と−の関係ではない。一種のゆらぎと言ってもいいだろう。独立と連結を瞬時に反復しているような感じであるが。

p.p.s. このゆらぎが、時間となるのではないか。たとえば、二つの差異の関係は楕円的なゆらぎをもつのではないか。そして、それは渦動するだろう。水平力と水平力がぶつかって、渦動するのでは。そして、それは二重螺旋的ではないか。これは、以前に言ったことだが。

p.p.p.s. 水平共感力とは、ODA ウォッチャーズ氏の考えから言えば、半回転、i化であろう。つまり、簡略に図示すれば、垂直強度が強い場合、つまり、不連続的差異として独立して存在している場合は、

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差異1  差異2  差異3  差異4  差異5   差異n      
垂直強度が強いときは、このように、差異同士は分離している。正に、不連続的差異である(縦線は二本ではなくて、一本として見る)。しかし、水平強度が強いときは、

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差異1  差異2  差異3  差異4  差異5 ・・・差異n

となり、連続的に見えるのである。
 あるいは、次のように考えたらどうだろうか。差異1と差異2とが無限遠点で交わるとしよう。つまり、イデア界だから、差異は無限速度で動くのである。そのとき、差異1と差異2とが無限遠点で交わると想定できるのではないか。もっとも、この交点は、擬制である。交わると見えるのである。差異1と差異2との間には隙間があるのである。境界は、差異の強度の「差異」によるのではないか。
 とまれ、以上、二つのあり方を考えた。一つは、水平強度的交通(接触ではないだろう)による差異連結であり、一つは、無限速度による無限遠点での疑似交点である。思うに、ドゥルーズは、二重セリーの共鳴ということで、このような不連続的差異の「連結」を考えていたと思う。しかし、そこに、比例=微分が鎮座しているのだ。共鳴という考え方は、共振であり、そこに同一化があるだろう。しかし、交通や疑似交点には、同一化はない。つまり、あくまで、差異1のまま、差異2を反映するのであり、差異2のまま、差異1を反映するのである。ならば、この不連続的相互反映の媒体は何なのだろうか。あるいは、直截的交通なのか。また、強度とは何かという問題がある。強度は、差異自体にあるのか、差異と差異との間に強度が生じるのか。それとも、両者にあるのか。イデア界自体に強度があるのは当然であるが、おそらく、差異自体に強度があると見ていいのだろう。つまり、垂直/水平強度である。これは、極性的であるが、+−ではなく、「時空間」的強度である。両義的、両極的な強度であり、平面的強度である。そして、スピンを差異に想定できるだろう。垂直強度と水平強度のベクトル的回転である。そして、思うに、これが、現象界の時空間を形成する強度であろう。存在物は、この差異強度回転の連結から生じるのであり、水平化の擬制的連続がいわば生であり、垂直的分離化が死ではないか。これは、生命体に限ったことではなくて、無機物の生成にも関係するのではないか。たとえば、素粒子の生成消滅とか。
 ところで、差異に+−の極性があるとしたらどうだろうか。図示しよう。


 (+)        (+)
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 (−)        (−)
 差異1        差異2


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(+)ーー(−)⇔(+)ーー(−)    (図2)

   差異1      差異2


である。図2において、差異1の右辺の(−)と差異2の左辺の(+)とが「共感」交通をしよう。しかし、これはゼロ度ではない。差異強度1と差異強度2との1/2強度の交通である。ODA ウォッチャーズ氏に倣って、四分の一回転、iの交通と言おうか。ドゥルーズが二重セリーの共鳴と言ったのは、この交通をゼロ度にしているのではないだろうか。差異1と差異2との水平交通をゼロ度にすれば、確かに、差異1と差異2とは共鳴しよう。これでは、連続となり、微分的差異となる。結局、以上の考察から見ると、差異には垂直/水平性と、±の極性性の二つの属性を強度としてもっているということになろう。おそらく、差異と差異との境界交通に、メディア界並びに現象界生成の根源があるのではないだろうか。この点に関しては、稿を改めて検討しよう。


p.s. 垂直/水平性と±極性性とは、いわば二重螺旋構成の原基ではないだろうか。前者がヒモであり、後者が二重性を形成するのではないだろうか。つまり、垂直/水平性とは、差異併存・並立・共立の力であろう。そして、その共立を±極性が貫いているということではないだろうか。では、±極性とは何か。それは、空間性ないし原空間性ではないだろうか。ならば、垂直/水平性とは、時間性ないし原時間性ではないか。つまり、差異強度とは、時間強度として垂直/水平性を、空間強度として±極性性をもつのではないだろうか。もちろん、イデア界においては、それらは、点、原点として、不可分であろう。もしこのように考えられるならば、差異とは、二元的四次元性をもつと言えるのではないだろうか。つまり、1+1=2+2である。しかし、それとは別に、差異自体が存している。だから、プラス1で、結局、三元的五次元性ともつと言えるのだろうか。そして、最小の差異の共立を考えると、5×2=10となろう。10次元性だろうか。数字遊びのようにも見えるが。超絃論とカバラの10。そして、東洋の五大。地水火風空。五輪。ペンタグラム。ところで、一番の問題は、差異と差異との境界強度である。これを稿を改めて検討しよう。

以下から
http://blog.melma.com/00122700/20041204041043