直観又はエウレカ:氣が五芒星形の現象に転換するが、氣は継続する

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直観又はエウレカ:氣が五芒星形の現象に転換するが、氣は継続する


テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合


昨日(3/31)閃いたことだが、丁寧に述べるには時間がかかるので、今、簡単に触れておく。
 先に、桜の花の五芒星形(ごぼうせいけい)について述べたが、五芒星形とは、端的に、正五角形であり、それは、黄金比を含み、また、フィボナッチ数列を導くのである。
 これはいわば、自然のもつ形態原理である。私はそれを美的原理とは呼びたくない。それは、いわば、(氣的)快的形態原理とでも呼びたい。
 言いたいことは、この五芒星形ないし正五角形であるが、これは、氣の発現原理に拠るのであり、この形態自体において、なんらかの氣が発動するのではないかということである。
 黄金比は美的であると言われている。私見では、快的と言いたいが。用語概念的には、快的というより、生命快(生快)的という言う方が的確である。
 とまれ、今は直観を言うが、五芒星形(☆)は氣を発しているのではないかということである。
 私は森に接すると、氣を感じるが、それは、基本的には森の場が氣を発しているとは思うが、森の樹木の形態(そして色、緑色)が氣を発しているからではないだろうか。
 つまり、植物有機体の形態は氣を発しているのではないかということである。
 今は、GP陰陽哲理学による理論的考究は行わずに、直観を述べるに留めるのであるが、この形態と氣の相関は十分考察の必要があると思っている。
 いわゆる美はこれで説明がつくと思う。
 美というより、美快は氣の発現形態で説明がつくように思うのである。
 宇宙はcosmosであるが、それは、秩序を意味する。この秩序は、いわば美的秩序である。化粧のcosmeticはここに由来する。
 これは、orderの秩序とは違う。
 そう、cosmosは、古代ギリシア語のピュシスである。自然(じねん)である。
 これは、氣の発現形態と思われるのである。
 自然が何故、生命快(「美」)的なのかと言えば、氣が発現しているからだと思うのである。
 問題は、陰陽ガウス平面から見ると、氣は虚軸にあるのに、どうして、実軸である現象の形態において氣は発動するのかということである。
 今思うことは、形態とは実は、イデア(エイドス、原型・原形)的であり、それは、氣の次元、つまり、虚軸に通じているということである。
 つまり、陰陽ガウス平面図から見ると、形態は原点・交点MP(Media Point)において発生すると思われるのである。
 つまり、形態(イデア、エイドス、原型)とは、高次元と現象次元の中間次元つまりメディア次元にあるということになる。
 このメディア次元、中間次元とは、高次元である氣を帯びると同時に、可視的な現象に体現しているものと考えられる。
 今はここで留める。


参照:

         
            凸i陽
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・霊______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


      応用陰陽ガウス平面


(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)


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メディアとは何か:権力と権威:資本権力と間接民主主義と代理メディア:文明史的大分岐点の資本権力


テーマ:言論の自由/ネット弾圧:サイバー・ウォー


今は思いつきのみ。
 政治権力を考えたとき、それを基礎付ける権威が必要である。古代は宗教的権威があった。つまり、神を信仰していた。天皇制はそのようなものであるし、仏教の権威もあった。
 とまれ、「近代」世俗社会になると、つまり、敗戦後の日本社会は、「民主主義」社会となっている。政治権力は、「民主主義」の権威の裏付けがなくてはならない。民主政である。
 この「民主主義」は間接民主主義であり、国民は、代議士等に権力をあずける。そう、いわば代理制である。つまり、権力と権威の間に代理が入るのである。
 そして、この代理人の説明がメディア、マスメディアではないだろうか。つまり、代理メディアということである。
 そして、資本主義において、間接民主主義は資本の経済力に支配される。だから、代理メディアは、実質、資本権力の代理メディアになってしまい、建前として、国民の代理メディアということではないだろうか。ここには、政治家に見られるような二重構造があるのである。表面は、口先は「民主主義」であるが、実体は、資本権力主義ということになる。
 ここで問題は、権威の問題である。「民主主義」は国民を権威にしているのであり、権威の代理として代議士、政治の解説として、代理メディアがある。
 しかし、政治は権力であり、実際は、資本権力が支配的である。
 ここで何が問題なのだろうか。
 問題は、「民主主義」のもつ権威性である。主権在民であり、ここに国民の権威がある。それは、権力を代理的に構成すると形式になっている。しかし、実質的権力は資本権力である。
 ここには明らかに欺瞞がある。自家撞着がある。
 資本権力にとって、権威があるのだろうか。おそらく、自分自身が権威ではないだろうか。ただ、「民主主義」という擬装をとっているということではないだろうか。
 これは悪政、暴政になるしかないだろうか。
 では、資本権力に克つ権威ないし権力はあるのだろうか。
 おそらく、世俗的にはないだろう。
 しかし、注意すべきは、資本権力には、意識・知性・精神があるのである。
 もし、資本権力の意識が父権的同一性主義ならば、それは、戦争資本主義になるだろう。
 それに対して、資本権力の意識が母権的有機体主義ならば、それは、協働資本主義になるだろう。
 では、メディアの問題に返ると、同じことが言えよう。
 メディアの意識が父権的同一性主義ならば、戦争資本主義のプロパガンダ機関となろう。
 メディアの意識が母権的有機体主義ならば、協働資本主義のコミュニケーション機関となろう。
 どうも、ここに現代喫緊の問題はここにあるようだ。
 日本の場合、資本権力は前者であり、マスメディアはそのプロパガンダ機関になっている。 
 しかし、世界状況は文明史的大分岐点にあるのであり、資本権力は後者が台頭としているのである。
 日本国民は後者については、マスメディアを介しては当然、まったく知らされていないのである。
 私見では、権力はpowerではなく、force(強制力)である。権威はauthorityというより、powerだと思う。
 powerとは、存在の根拠ではないだろうか。権威が希薄ということは、存在の根拠が希薄ということだろう。
 結局、日本国民の意識の強度・深度の問題になってくるのである。
 今はここで留める。後でもう少し整理して言いたいが。


追記:マルクスの『資本論』や近代経済学が生まれた意識的土台は唯物論、利己主義であるが、それは、GP陰陽哲理学的に言えば、父権的自我同一性主義である。
 そう、これまでの経済学が闘争・戦争的であったのは、資本権力の支配者が父権的意識の持ち主だったからだろう。
つまり、資本*意識という複合体を考えるべきなのであり、これまでの資本主義経済は、資本*父権意識主義的経済であったということになる。資本*XのXを存在を無視してきたのである。
 今や、資本*母権意識主義的経済が誕生したのである。それが、ロシア、中国のブリックスであり、また、專葬邪を除くオバマ政権であり、專葬邪から脱出しつつあるEUと言えよう。