検討問題:不連続的差異論は何を解放し、何を未分化に残したままか:

検討問題:不連続的差異論は何を解放し、何を未分化に残したままか:悪魔は生命を憎む?


テーマ:PS陰陽論:ガウス平面と陰陽論の統合


今日は、いろいろ閃いたが、余裕がないので詳論できない。
 一つは、不連続的差異論の問題で、何を解放し、何をまだ未分化に残しているかということである。 
 一つは、悪魔は生命を憎悪するという問題である。
 前者について簡単に触れたい。
 不連続的差異論は、陽(自我)と陰(魂)を分離した。
 しかし、何をまだ、分離していなかったのか。
 陽凸iと陰凹iを分離したものの、陰凹iと+1を分離しなかったのではないだろうか。言い換えると陽凸iと−1(自我)と陰凹iは分離したが、陰凹iと+1の生命欲が分離しなかったのではないだろうか。
 思うに、−1が頭脳自我であり、+1が身体生命である。
 そうならば、陰凹iと+1のさらなる分離が必要である。これは、言うならば、非連続的不連続的差異論である。これは、氣的身体論ないし中丹田的氣的陰陽バランス論が必要である。D.H.ロレンス的に言えば、王冠=聖霊的陰陽均衡論である。
 聖霊は私の用語では、「こころ」である。
 とまれ、氣的聖霊的陰陽均衡論が必要だと思う。
 それによって、陰凹iと+1の生命欲が分離されて、純粋化するのである。いわば、二重現象学的還元である。
 とまれ、二つの不連続化が必要ということになるのである。
 二重不連続的差異論である。
 また、先に次のように書いた。以下の赤線下線部を見られたい。


死の欲動は過剰自我の破壊的衝動?:金儲け主義には魔が取り憑く
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11942873265.html


追記:陰陽方程式凹i*凸i⇒±1、または凹i*凸i⇔±1であるが、死の欲動は、⇒−1なのか、それとも、⇔±1の←の方向なのか。
 父権的自我は⇒−1で説明がつくだろう。では、←±1とは何か。それは、根源への回帰の志向である。
 ⇒±1は、フロイト的に言えば、エロスの衝動であろう。セクシュアリティの衝動であろう。生命欲である。
 しかし、⇒−1の自我欲があるので、⇒±1は、自我的生命欲である。
 問題は、やはり、←±1の←のベクトルの意味である。
 どうも、これこそ、死の欲動ではないだろうか。⇒−1は自我欲であり、確かに破壊的であるが、必ずしも、死の欲動ではないだろう。
 わかりやすくするため、破壊の欲動を⇒−1とし、死の欲動を←±1としよう。
 思うに、死の欲動とは宗教衝動ではないだろうか。根源の太極・陰陽へと回帰する衝動のように思われる。
 プラトンのエロースもそういうものではないだろうか。
 いわゆる、霊や精神というものも、ここに存するのではないだろうか。例えば、バッハの音楽は、まさに、ここを根源にしているのではないだろうか。
 ←±1の←の先には、いわば、太極・陰陽霊があるだろう。これは、普遍的にすべての宗教に共通するのではないだろうか。
 思うに、この死の欲動=宗教衝動=霊的衝動をコントロールする必要がある。そうでないと、まさに、破壊的にはたらくと思う。なぜなら、これは、地上で目的が見つからないからである。破滅的衝動となるだろう。
 作家、芸術家が破滅的になる傾向があるのは、この欲動があるからと考えられる。
 一般の人は、⇒±1の自我的生命欲衝動で生きているのであり、←±1の形而上学的衝動を抑えていると思う。
 問題は、←±1の衝動と→±1の衝動のバランスをとることである。言い換えると、精神と身体のバランスをとることである。
 最後に現代の破壊の衝動であるが、これは、⇒−1の父権的自我の衝動とみる。
 しかしながら、発出しだした、根源回帰衝動を否定しているので、反動状態になっているのである。この反動が凶暴(狂暴)性をもたらしていると考えられる。
 父権的自我の反動的暴力衝動である。それが、銭葬夜の破壊主義と考えられる。


 どうも、それは間違いである。「地上で目的が見つからない」というのは間違いである。
 実は、二重不連続化(一次・二次的不連続化)によって、陰凹iと+1が分離することによって、地上における他者が見つかるからである。一次的不連続化では、他者が自己生命欲と未分化で、いわば、利己的になるのである。盲目なのである。
 しかし、二次的不連続化を経ることで、地上の他者が生じるのであり、いわば、理性が生じるのである。地上の他者との共生が生じるのである。
 思うに、そのとき、陽凸iの「自我」であるが、それは、いわば、共我ないし共自我というべきものではないだろうか。他者とともにある自我であるからである。
 今はここで留める。