こころは森林、樹木と氣によって共振・共鳴・共感している

こころは森林、樹木と氣によって共振・共鳴・共感している


テーマ:復活の森:森へ還れ:グリーンマン森共同体


東洋哲学は、端的に、氣の哲学である。
 これを、明治維新脱亜入欧は否定した。戦後はさらに輪をかけた。
 確かに、唯物科学からすれば、氣とは迷信・迷妄に過ぎない。
しかし、しょせん、唯物科学も仮説である。絶対ではありえない。
 不思議であるが、どうして、西洋の作家・芸術家は、氣を説かなかったのか。想像力を説いたが、氣は説かなかった。
 ところで、想像力であるが、それは、像在力というのが的確と思うのである。像在力、これは、夢のイメージ力でもある。
 今日、知性中心主義であるが、それは、この点が欠陥であるのである。像在力を欠落した知性は、単に、抽象的知性に過ぎない。像在力をもって具象的知性になるのである。そして、これが、真の哲学的知性だと思うのである。そう、芸術的知性とも言える。哲学的知性は芸術的知性と一体ではないだろうか。
 後で、精緻に検討したい。


追記:キーポイントを言わなかった。想像力は像在力とすべきであると述べたが、像在力の本体は氣であると考えるのである。いわば、氣像力でもある。
想像力=像在力=氣像力
という図式になる。




日本宗教革命:超越神としての神々


テーマ:日本復活の新福音:吉祥、朗報、吉報


私が西洋の宗教に接して、もっとも驚いたのは、その神が超越神であるということである。一神教ということより驚愕した。
 私はそれまで、内在的に宗教を理解してきた。
 しかし、端的に、西洋の神は超越神なのである。あるいは、一神教の神は超越神なのである。
 超越という観念が日本人にはおそらくピントこないだろう。
 超越とは自我の理解を超えるということである。これは、実は、他者の観念に通じるように思われるのである。
 内在観念では、連続的になり、自我を介した他者理解になると思う。
 もっとも、内在観念であるが、不連続的差異論を介すると、そこには、不連続的他者(差異)があるのである。
 この不連続的他者であるが、これは、実は超越性に通じていると思うのである。何故なら、自我とは関与しないからである。純粋他者である。つまり、超越的他者である。
 キリストの隣人もこの超越的他者と言えよう。


追記:超越的他者とは、コスモスと感じられたのである。
 それは、氣的宇宙ということである。
 しかしながら、今では、それが静まって、個的肚になっている。
 そう、地上的コスモスになったのである。外的他者との共在性になっているのである。
 では、コスモス感性はどこに行ったのであろうか。
 もう、かなり長い間、コスモス感性は失せているのである。
 思うに、外在的コスモス感性が消えて、今や、内在的コスモスとしての内在且つ外在的他者になっているように思う。
 コスモス感性は多様な個々の世界の知覚へと変容したように思うのである。





死の欲動は過剰自我の破壊的衝動?:金儲け主義には魔が取り憑く


テーマ:放射能汚染と闘う知恵:光合成細菌、乳酸菌


人間は言わば、自我の動物である。自我は、他の生物にはないだろう。
 そう、自我の動物というよりは、自我が発達し過ぎた動物である。
 仏教は自我を否定したが、否定できるものではない。(因みに、キリストの教えは、無私の愛ではない。自我を肯定した、共感的精神、生命的精神である。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたし
を信じる者はだれも、決して 死ぬことはない。
このことを信じるか。』マルタは言った。
『はい、主よ、あなたが世に来ら れるはずの神の子、
メシアであるとわたしは信じております。』
ヨハネ福音書11:17-27)
ヨハネ福音書から・・・・ラザロの死と復活 - nifty
 自我が過剰になると、憎しみ、憎悪、嫉妬、怨恨、悪意、殺意、等の破壊・攻撃的衝動が生まれると思う。
 戦争の原因は、端的に、この自我過剰性にあると思う。父権的自我がそのような性向をもつのである。悪魔的自我である。
 とまれ、今日のゾロアスター教的黙示録的状況において、知恵をもって切り抜けないといけない。
 とまれ、原発主義は、自我過剰主義に因るのであり、生命破壊的である。そう、死の欲動に取り憑かれているということではないだろうか。
 なにか。今の日本は、死の欲動に捉えられ、自壊自滅へと向っているようだ。


追記:陰陽方程式凹i*凸i⇒±1、または凹i*凸i⇔±1であるが、死の欲動は、⇒−1なのか、それとも、⇔±1の←の方向なのか。
 父権的自我は⇒−1で説明がつくだろう。では、←±1とは何か。それは、根源への回帰の志向である。
 ⇒±1は、フロイト的に言えば、エロスの衝動であろう。セクシュアリティの衝動であろう。生命欲である。
 しかし、⇒−1の自我欲があるので、⇒±1は、自我的生命欲である。
 問題は、やはり、←±1の←のベクトルの意味である。
 どうも、これこそ、死の欲動ではないだろうか。⇒−1は自我欲であり、確かに破壊的であるが、必ずしも、死の欲動ではないだろう。
 わかりやすくするため、破壊の欲動を⇒−1とし、死の欲動を←±1としよう。
 思うに、死の欲動とは宗教衝動ではないだろうか。根源の太極・陰陽へと回帰する衝動のように思われる。
 プラトンのエロースもそういうものではないだろうか。
 いわゆる、霊や精神というものも、ここに存するのではないだろうか。例えば、バッハの音楽は、まさに、ここを根源にしているのではないだろうか。
 ←±1の←の先には、いわば、太極・陰陽霊があるだろう。これは、普遍的にすべての宗教に共通するのではないだろうか。
 思うに、この死の欲動=宗教衝動=霊的衝動をコントロールする必要がある。そうでないと、まさに、破壊的にはたらくと思う。なぜなら、これは、地上で目的が見つからないからである。破滅的衝動となるだろう。
 作家、芸術家が破滅的になる傾向があるのは、この欲動があるからと考えられる。
 一般の人は、⇒±1の自我的生命欲衝動で生きているのであり、←±1の形而上学的衝動を抑えていると思う。
 問題は、←±1の衝動と→±1の衝動のバランスをとることである。言い換えると、精神と身体のバランスをとることである。
 最後に現代の破壊の衝動であるが、これは、⇒−1の父権的自我の衝動とみる。
 しかしながら、発出しだした、根源回帰衝動を否定しているので、反動状態になっているのである。この反動が凶暴(狂暴)性をもたらしていると考えられる。
 父権的自我の反動的暴力衝動である。それが、銭葬夜の破壊主義と考えられる。


◆2014/10/22(木) 木下は 消されて当然!と 得意顔



問題は…、何の挨拶もなく、ブログの全てが、突然、削除された!ということ。これは、まこと、尋常なことではない!

ところが木下黄太は、「ブログをやめたのは当然の成り行き…」とかと、まことに冷酷な口調なのだ。
ためしに、木下黄太のこの冷酷な文章 を読んでみて下さい。

「東京から脱出しろ! 」 と叫ぶだけで、本心は反原発系が憎い!という木下黄太の本性(読売のウラパシリ)が見えてくるから…。

さらに…、
「反原発系のブログなど消えて当然!」といった木下黄太の物言いに、「反原発系のブログなどは消してしまえ!」という読売的な殺意を感じる人もいるだろう。

同時に…、
反体制的な言論を冷酷に封殺し謀殺する警察官憲の足音も…。
にっぽんよ おまえは いったい どこまで いくんだい?


飯山一郎のHP


1.「悪霊」ドストエフスキー
www.geocities.jp/gaimutorisimariyaku/bun1.htm


そして、それは悪霊たちがたくさんの豚(マルコ伝では二千匹と言われる)にそれぞれ
入っていったという記述からもみてとれる。 ... 悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、
エスはお許しになった。33)悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚
の ...


ご注意あれ!「自然死の尊厳を守る」とは、マネーのための意図的な戦争・疫病は排除だが、放射能・電磁波・食品汚染での人口減は黙認のようです。

こんにちは。名古屋・大阪では、人類史の構造変換が始まったことを話しました。

FRBに戦争屋がいて、そこが、意図的な戦争や疫病で人口減を引き起こしながら、これまでの金融資産を維持するやり方に対し、17万トンの金塊を管理する側(王族会議)が、ノーをつきつけ、方向転換させましたが、

重要なことは、その王族会議や華僑系グループ自身も、個人としては、米ドル建てでの金融資産を持っていること。 この資産を活かして、平和で快適な世界を作ろうとしていることです。

ここには、二つ大きな意味があります。  

 ?米ドル建ての金融資産があるということは、米ドルをミスミス無価値することはないということ。 

 ?平和で快適な世界といった場合、犯罪に関して厳しい管理社会になることと、人口減を歓迎するということ。
新井信介 「京の風」




あたらしい日の国へ向けて:New Dawn


テーマ:日水湖宮(ひみこく);新国名:水瓶座時代


今年は、私にとって試練の年であると述べたが、苦境から脱出しつつあると感じる。運気も向上している。
 陰陽論を知っていると、悪いことも、良いことに転ずることの理解ができる。経験的には、それはわかるのである。悪⇒善である。
 陰陽論は基本的に他者に寛容である。では、悪に対してはどうかというと、勿論、悪は批判するが、実は、悪には、そのパラドクシカルな役割があると思う。
 ユダヤ教文化は、今日では悪であるが、それは、物質・軍事科学をもたらしたのである。ネットもコンピュータも、それがなければ、存在しなかったであろう。
 悪を批判しつつも、肯定できること、これは、達人の精神である。そう、これは、端的に、キリストの教えである。
 しかしながら、今日、日本人の内在的悪は極まっている。とりわけ、権力層である。
 今日、多極化路線がメインストリームであり、日和見主義の日本権力層はそちらに赴くだろう。千争邪を裏切るだろう。
 いい加減な日本父権主義は、多極化路線へ移行するだろう。





Wed, October 22, 2014
「歩く」とは「在るく」?:森氣浴清掃散策のせいか快腸快便だ


テーマ:健康&治癒:森気浴:医食同源:小食菜食


今や、散策にベストシーズンである。
 昨日も、夕方であるが、数時間過した。蚊がいないのは、実に幸いである。
 散歩は1時間ほどした。やはり、歩くことが大事である。今の考えでは、散歩とは、身体の揺動である。これは、陰陽共振をもたらすのではないだろうか。陰陽共振とは正に、生命エネルギーの賦活と考えられるのである。
 じっとしていることは、陰陽共振が生じないので、陰気になるのである。
 そう、音楽が生命的なのは、律動・リズムという陰陽共振があるからだろう。
 そう、昨日思ったのは、聴覚は闇である。視覚は当然、光の世界である。現実においては、視覚優位である。しかし、聴覚は音楽は視覚、光より深いと言えよう。
 私は視聴覚人間であるが、どちらが強いだろうか。
 私は音楽人間であるが、意外に、視覚人間である。見た目で、人間を判断するのである。
 思うに、音楽は植物的であろう。視覚は動物的ではないだろうか。
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Wed, October 22, 2014
「死の衝動」とは何か:フロイトの「死の欲動」(「死の本能」)


テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌


PS陰陽論は、生命の理論(仮説:もっとも、すべての理論は仮説である)であるが、どうしても、「死の衝動」というべきものがあるように思う。
 確かに、生への志向があれば、死への志向があるのは、バランスから正当である。
 これは、陰陽方程式凹i*凸i⇔±1における←の方向ではないだろうか。つまり、凹i*凸i←±1ではないだろうか。
 凹i*凸i⇒±1が生の方程式なら、凹i*凸i←±1は死の方程式ではないだろうか。
 ならば、死の方程式の力学はどう説明できるのだろうか。
 直観では、作用反作用の力学で説明できそうである。
生の方程式が作用なら、死の方程式は反作用である。
 しかしである。生の志向自体が、天への志向ならば、それは、同時に、死への志向ではないだろうか。つまり、生即死である。
 あるいは、光即闇である。
 太陽即暗い太陽である。
 私は若いとき、真夏の海岸で体験した太陽は、暗い太陽である。陽光は闇である。
 言い換えると、生への欲動と死への欲動が同時に生起するのではないだろうか。
 生きるとは死ぬことではないだろうか。
 セックスは、一種の死であろう。ニルバーナへの回帰だろう。
 とまれ、方程式に戻ると、作用反作用では、生と死は均衡が取れていて、それだけでは、生への欲動が死への欲動より強いことが説明できないだろう。
 思うに、陰陽において、陰の方が陽より強いのではないだろうか。そうならば、生への欲動が死への欲動よりも強いことが説明できるのである。つまり、陰>陽である。
 そうならば、ダークマターが多いというのの説明できよう。
陽=原光より、陰=原闇が強いということである。
 陰陽論は当然、そういう含みがある。
 初めに、玄牝ありきである。
 後で、より哲学的に深めたい。
 

1.
デストルドー - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/デストルドー

* キャッシュ
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患者はしばしば「死にたい」という言葉を発するが、「死の本能」でなく「死の欲動」と訳す
ことにより、「死にたい気持ちに駆られる」と言わしめるもの、フロイトが「生の欲動」「死の
欲動」の二元論で説明しようとしたものは臨床現場で頻繁に聞かれる「死にたい気持ち」
...
2.
死の本能 とは - コトバンク
kotobank.jp/word/死の本能

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世界大百科事典 第2版 死の本能の用語解説 - S.フロイトの用語。正確には〈死の衝動〉
ないし〈死の欲動〉。フロイトの本能論は,本能の内容は理論的展開とともに変わってい
ったが,つねに二つのものを対立させる二元論である点は変わらなかった。〈死の本能〉
...