自我とは何か:二種類の利己主義:陽我と陰我:理性氣=調和氣=一(

自我とは何か:二種類の利己主義:陽我と陰我:理性氣=調和氣=一(いつ)の氣


テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化


これまで、自我を凸iの極大、且つ、固定したものとしたが、以下、参考にあるように、二種類の自我を考えた方が適切なようである。
 シュタイナーの二種類の悪魔論(以下、悪魔を悪鬼とする)を参考にすると、アーリマンに当たるのが、陽の自我であり、ルシファーに当たるのが、陰の自我であるが、シュタイナーの用語では、アストラル体とほぼ一致するのではないだろうか。アストラル体とは、動物体、欲望・感情体である。
 ここで、PS陰陽論の前身である不連続的差異論に返って考えたい。
 不連続的差異論をPS陰陽論に適用すると、不連続化とは、先に述べたように、陰と陽の不連続化、切断である。
 つまり、それまで、陽の自我にもつ連続的同一性主義によって、陰の自我が陽の自我に支配されているのであるが、それを断ち切って、陽のもつ同一性から陰の差異を解放するのである。
 しかしながら、問題は、解き放たれた陰の自我(凹i)であるが、それは、肚であるから、動物的欲望・感情と一如なのである。
 そう、プラトンの『パイドロス』で言えば、黒い馬である。獣欲があるのである。(D.H.ロレンスのセックス主義はここを意味しよう。)
 そう、陰の自我(凹i)、黒い馬は奔馬である。
 そうすると、陽の自我(凸i)の冷酷な自我と陰の自我(凹i)の獣欲の自我が存するのである。
 そう、結局、この陽の自我と陰の自我の不連続化は、だから、実に危険であることがわかる。ここには、道徳、倫理、魂、愛、共感性がないのであるから。
 シュタイナーは二つの悪鬼の間にキリストを媒介させて、両者のバランスを取るのであるが、当然、キリストには、共感性、無私性、他者性がなくてはならない。
 PS陰陽論から言えば、キリストに当たるのは、既述のように、氣である。
 以前、凹i(陰)に関して、コスモス(小宇宙=大宇宙)が感知されると述べたが、それは、凹i(陰)が凸i(陽)と自然発生的に形成している陰陽共鳴に拠るものと思われるのが、それは、まだ、理性になっていないので、今は積極的な意義はない。
 さて、不連続化された陰的自我(陰我)と陽的自我(陽我)に道徳・倫理をもたらすものは、これまでの考察から、氣である。
 氣は本来、一(いつ)で、陰陽調和しているものである。思うに、理性氣というように呼んでもいいのかもしれない。
 確かに、悪い氣もあれば、多様な氣があるから、陰陽調和の氣は理性氣ないし調和氣と呼んでもいいのかもしれない。
とまれ、理性氣=調和氣は一(いつ)であり、それは、陰我と陽我両面に働いて、両者の自我のバランスをもたらすと考えられる。
 理性氣=調和氣=一の氣は、道教で言う中丹田に存すると考えられる。
 ところで、近代合理主義において、いちばん排除されるのは、この理性氣(簡単に理氣としようか)である。
 何故、排除されるかと言えば、それは、陽我にしろ、陰我にしろ、両者の主導性を否定するからである。
 思うに、ロマン主義神秘主義であるが、それは、意外に、理性氣に起点があるのかもしれない。
 しかしながら、情感が主導的なために、理性氣のもつ知性の側面が従になってしまったと考えられる。本来、理性氣は、情的側面と知的側面の両面の均衡を志向するのであり、ロマン主義神秘主義は前者に傾斜してしまっていると言えよう。
 思うに、近代合理主義において、陽我が主導化され、中心化すると、理性氣=一の氣のもつ形而上学性は衰退していく。言い換えると、世俗化するのである。
 そして、資本主義の発達にともなう、世俗主義によって、欲望が肯定される。それは、陰我の肯定である。
 結局、陽我と陰我の二つが結合した自我様態がハイパー近代主義と言えよう。理性氣がまったく喪失されるのである。
 ここで、他者の問題を考えよう。そう、同時に、個の問題を考えよう。
 私はこれまで、肚が他者である、個即他者であるというようなことを言ってきたが、それはどう説明できるだろうか。
 肚が他者とは、肚=陰我で、それが、陽我と調和を形成する限りにおいて、そう言えるのではないだろうか。
 だから、中心には、理性氣が存すると思われるのである。
 個も結局、同じことで、中心に理性氣が存するのであり、というか、理性氣が個そのものと言えるのではないだろうか。
 他者の場合、理性氣が肚=陰我へ作動しているときの、肚=陰我ではないだろうか。
 今はざっと言うが、そうならば、近代主義において、他者や個は否定される傾向が強いと言えよう。
 有り体に言えば、二面的利己主義(陽我ー陰我)が他者、個を否定してしまうのである。
 では、そうならば、どうやって、理性氣=調和氣=一の氣、他者、個の意識を形成するのだろうか。
 ここで、優れた文化的作品が役立つと考えられる。
 芸術(美術、音楽)、文学、哲学、宗教的作物、等々である。
 しかしながら、私は自然に接することの重要性を指摘したい。
 自然は、とりわけ、植物的自然は陰陽調和の氣で形成されているので、当然、理性氣=調和氣=一の氣を、接触するものに喚起すると考えられるのである。
 さて、最後に、理性氣=調和氣=一の氣であるが、これは、どうも直観では、近代的意識には不快感をもたらすようなのであるが、どう説明できるだろうか。
 近代的意識は、理性氣=調和氣=一の氣を排除しているので、理性氣をもつ他者は、不快の対象となると考えれる。
 悪鬼は善霊を嫌がるということと言えよう。
 そう、理性氣=調和氣=一の氣は善霊と呼んでもいいように思えるのである。
 最後に氣と霊の関係について、少し触れたい。
 私は言わば、唯氣論で、霊も説明しているが、果たして、それでいいのだろうか。シュタイナーのように、霊(スピリット)を全面に提起した方が正確ではないのか。
 私は、PS陰陽論において、すべて太極⇒氣=陰陽から説明したいと考えているのであり、霊という視点はできるだけ避けているのである。
 近代科学は唯物論であるがPS陰陽論は現段階は唯氣論である。
 もう少し説明すると、陰陽であるが、自我としての陽や陰であるが、それは、当然、植物を形成する陽と陰とは質が異なるだろう。しかし、陽は陽、陰は陰である。
 思うに、陽でも、高次の陽と低次の陽があるのではないだろうか。高次の陽や高次の陰が二つの自我を形成するというように今段階では作業仮説しているのである。
 この点は稿を改めて検討したい。


参考:
ルシファーは陰的なもので、アーリマンは陽的:陰陽調和氣はキリスト的である


テーマ:霊学:シュタイナー精神学


病気、痛み、悩みの積極的意味


いままで、有害なものとして忌み嫌ってきた病気などの苦悩を、有益なもの
として観察し、活用できるようになるからである。この部分の価値観が全く
逆転し、積極的展開ができるからだ。なお、下記和訳の中に、カッコ内に、
ご参考に、筆者斉藤の註記を入れた。

★シュタイナー著「悪の秘儀 アーリマンとルシファー」 松浦賢訳 P62-

「ルシファーの霊たち(注:悪の霊たち)の力によって、人間は地上の印象
に対して関心や欲望を抱くようになりました。・・・このとき、人間が形態
の霊たち(注:善の霊たち、天使など)や高次の霊的な領域全体に完全に離
反しなかったのは、いったいなぜでしょうか。
人間が完全に感覚的な世界の関心や欲望のとりこにならなかったのは、何の
力によるものなのでしょうか。

それは、人間を進化させようとする霊たち(注:善の霊たち)が、ルシファ
ー存在たち(注:悪の霊たち)に対抗する手段を講じることによって可能と
なりました。

これらの霊たちは、本来含まれていなかったものを人間存在の中に混入させ
ることによって、ルシファー存在に対する対抗手段を行使しました。
つまり人間を進化させようとする霊たちは、人間存在の中に病気や、悩みや、
痛みを混入させたのです。このことが、ルシファーの霊たちの行為に対して、
必要なバランスを回復させることになりました。ルシファーの霊たちは、人
間に感覚的な欲望を与えました。

これに対抗して、高次の存在たちは、人間がこのような感覚的な世界に無制
限に落ち込むことがないように、ある種の対抗手段を用いました。
つまり高次の霊たちは、感覚的な欲望や感覚的な関心には病気や苦しみが伴
うようにしたのです。」
http://ameblo.jp/harmony777/entry-11748253845.html
斉藤英治@脳力up・著書115万部