色即是空:空とは陰陽調和共鳴と仮説する:波動は物質的である:氣は
色即是空:空とは陰陽調和共鳴と仮説する:波動は物質的である:氣は自然霊的である
テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性
以下の転載記事に興味深い空=波動説が提起されているが、空とは、最近、陰陽調和共振のことではないかと私は考えているのである。
そうならば、確かに、空は、陰陽調和波動ということになるかもしれないが、私は、陰陽つまり氣を波動と呼ぶことはほとんどない。確かに、数回は波動と呼んだことはあると記憶するが、積極的に、氣=陰陽を波動と呼んだことはない。
とまれ、氣=陰陽調和とは、植物体の生命力(生命緑:これは、なかなか楽しい言葉遊びだ)であり、当然、太陽、日光と関係するのである。何故なら、太陽の根源は少なくとも、氣=陰陽調和と考えているからである。(そう、氣のさらに根源の無双太極が太陽の真の根源と考えられよう。)
では、何故、氣を積極的に波動と呼ばないのか。そう、氣波と呼ぶことを先には考えていたが。氣波ならば、呼べないことはないが、それでも、そう呼ぶことはしないでいる。
氣=陰陽調和(思うに、氣は陰陽調和だけでなく、陰陽の多様な様態があるように思われるが、それについては、後で考えたい)を波動、波とは呼ばないのは何故か。
それは、私の心体において感ずる氣が波動、波という感じではないからである。波動、波より、霊の方がいいと思う。あるいは、精霊か霊精である。
そう、それは、言うならば、自然霊であり、波動、波というと物質的になるので、それを使用するのを躊躇うのであろう。
氣=陰陽調和は物質ではないのである。物質を産み出す「霊」、「精神」、「精霊」なのである。
波動、波では、また、機械的なのである。氣=陰陽調和は、機械的ではありえないのである。
そう、以下の説明は、波動ではなく、氣霊=陰陽霊と言えば、正当になるのではないだろうか。
波動では、ペテン的な波動商品がついて回るのである。
そう、波動だと物質と連続的であるが、氣=陰陽調和は、物質と不連続なのである。この点が決定的である。(追記:以下の転載記事では、波動を量子とも見ている点で、波動は物質的であると言えよう。しかし、氣は量子ではなくて、氣の物質的影像が量子だと思われる。)
追記:補足すると、氣の陰陽とは、一(いつ)であり、かつ、極性をもつということである。この一であるが、それは、無双太極自体なのかどうか微妙である。
しかし、現時点では、陰陽の一とは、無双太極であるとしておきたい。
追記2:上記の追記で陰陽の一を無双太極としたのは、間違いである。ここで訂正したい。
根源は無双太極であるが、それが、陰陽の一=陰陽極性に転換するのである。
そう、無双太極から氣=陰陽への転換は連続的なのか、不連続的なのか、問題である。
直観では、連続的なように思えるのである。つまり、直観ではその変換は滑らかに感じられるのである。滑らかな移行を感じるのである。
そう、先の説明を思い出した。つまり、無双太極と氣=陰陽は即非関係であるということである。
だから、それは、中間的である。つまり、不連続であり、且つ、連続的であるということである。実に微妙ということである。
因みに、陰と陽も即非関係である。連続であり、且つ、不連続であると考えられる。
この点は、一度再確認する必要がある。
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超人ピタゴラスの音楽魔術
仏教は最先端科学
仏教は最先端科学の内容をすでに知っていた [TOP]
宇宙は波動で構成されていて、異なる振動数(周波数)の世界が何層にも重なり合って存在しているということでした。そのことは今日の最先端科学が明らかにしていますので、ここで素人の私が解説するまでもありません。
驚くべきことに、それと全く同じ意味のことが、仏教のエッセンスといわれる般若心経にしっかり述べられているのです。私は仏教に関しては解説書をかじった程度の知識しかありませんが、般若心経の解釈については、「これしかない」という確信を持つに至りました。
般若心経のなかで最も有名なのは「色即是空、空即是色」という言葉です。この「色」は物質や現象のことを意味しています。しかし、たとえば「物質は空である。空が物質である」と解釈しても、何のことか理解できないと思います。仏教の世界にいる人たちの解説は、ここでつまずいてしまうのです。「空」を「無」に近いものと解釈しているからです。「物質はあるようにみえるけど、時間が経つとなくなる不安定なものだ。だから執着してはいけない」といわれれば、何となくわかったようで、それでも釈然としない気持ちが残ります。
現代物理学は、この「空」の存在を立派に証明してくれました。ひところ、この空間には「エーテル状」のものが充満している、との考え方があったのをアインシュタインが否定したといわれています。いま、その考え方が再び復活し、「量子真空」という言葉で再定義されています。(『魂の記憶』喰代栄一・著/日本教文社)
この空間は目に見えない粒子、波動で満ち満ちているということです。その波動に一定の力が加わることによってエネルギーが発生し、「無」と思われたところにさまざまな「物質」が生み出されるというわけです。(『空間からの物質化』ジョン・デビッドソン・著/たま出版)
そこで、「色即是空、空即是色」を「色即是波動、波動即是色」というふうに置き換えて解釈してみてください。つまり、「物質は波動でできている。また、波動に一定の力が加わると物質に変化するんだよ」ということです。これが仏教の真髄なのです。2500年前に、お釈迦様はこの最先端科学の発見を完璧に理解しておられたということです。すごいと思いませんか。
般若心経はこの「空即是色」の後に「受想行識亦復如是」という言葉が続きます。「受想行識」はセットになった言葉で、物質的現象を意味するする「色」に対して「精神的作用」を総称したものです。「受」は感覚、「想」は想念、「行」は意志、「識」は認識、と理解したらよいと思います。「亦復如是」は、「〜もまた同じものだよ」と言う意味です。つまり、私たちの感覚も想念も意志も認識も、みんな波動だといっているのです。これも最先端の現代科学がいっていることとまったく同じです。
この理解を得ると、難解な仏教もフツーの人の頭で解釈できるようになります。
私たちは死ぬと、魂が物質としての肉体から離れ、波動の違う別次元に行くのです(正確には、魂はもともと別次元にも同時に存在しているのですが、そのことがこの物質次元からでは認識されないだけのことです)。ですから、魂は死滅することはありません。別次元のことは「幽界」とか「霊界」とか呼ばれていますが、その世界も波長の違いにより更に細かな階層に分かれているようです。
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1814911.html
大摩邇(おおまに)