問題:1.欲望と快感、2.純物質と生命有機体、3.氣と日光、4.

強調を含む本記事は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11679946939.html


問題:1.欲望と快感、2.純物質と生命有機体、3.氣と日光、4.屁蜜反故呆による屁遺政痴暗遺痔崩


テーマ:氣神論:氣は万物に通ずる:氣的身体理性


徒然に予見を述べておく。


1)欲望と快感


これはまったくの思いつきであるが、欲望を満足させたときの快感であるが、これには、脳内麻薬が関係しているのではないだろうか。
 酒を飲んだときの快感は、脳神経を麻痺させるものだろう。アルコールが麻痺させるということだろうが、いったい酔いとは何なのか。
 酩酊欲とは別に、食欲、性欲、所有欲等であるが、私の直観は、なにか依存症にさせるものが体内に生じるのではないだろうか。
 これは作業仮説として出すが、食欲が満たされたときの快感、性欲が満たされたときの快感、所有欲が満たされたときの快感、等の快感には、脳内麻薬の形成がともなうように思えるのである。
 だから、欲望は一種の依存症になるように思えるのである。
 この欲望/快感の問題は、3.自我の問題にも関係するのであるが、ここでは、脳内麻薬の問題に限定しておく。
 とまれ、欲望は一般には、増加する傾向にあると思う。快感をさらに求めて、拡大するのである。獣欲的になるのである。これは、醜悪的になるのである。
 近代とは欲望を肯定してきたので、これは必然、帰結である。(自由の問題がここには関係する。トランス・モダンという視点、立場を強調したが、やはり、近代の問題を考えると、近代を超える視点はもっとも重要なことの一つなので、トランス・モダンという用語を多く提起する必要はあろう。氣の哲学・科学[フィロソフィエンス]は、トランス・モダンの理性知である。)
 【今、空腹状態であるが、空腹というのは、確かに、食欲が満たされない、一種の苦痛、不満の状態であるが、しかし、それに耐えているが、その忍耐心には、なにか快感がある。性的快感だろうか。マゾヒズム? ひょっとして、欲望に耐えるということ自体になにか別の快感があるのではないだろうか。思えば、山歩きをしたとき、登るときは苦痛を耐えていくが、あるとき、その苦痛がぐっと減って、ほとんど感じなくなり、ハイの状態になるのである。なにかそれと類似して、忍耐の脳内麻薬があるのかもしれない。ひょっとして、それは氣による快感かもしれない。そう、よい音楽の快感は、明らかに、氣に拠るのである。生命力の快感である。ならば、少なくとも2つの快感を分ける必要があるのではないだろうか。私の仮説に拠れば、動物体による快感と植物体による快感となる。獣欲的快感と氣的快感である。そう、性愛が問題になるとき、この辺が分かりにくくなるのである。同性愛を含めて、性愛とは何か。人体の美の問題。これは、プラトンが『饗宴』や『パイドロス』で問題にしたものである。エロースの問題である。】(追記:性愛についての考察が尻切れトンボになっている。後で別稿で述べたい。)

追記:大事なことを言うのを忘れていた、資本増殖の欲望であるが、それこそ、人間にとって、もっとも「クセ」になるもの、脳内麻薬が出て、依存症、中毒になるものではないだろうか。
 これは、単に欲望だけでなく、自我に関係しているものである。後で、欲望と自我の関係について考察を行ないたい。


2)純物質と生命有機


これについては、先に、氣方程式、自我方程式に関係して述べた。純物質とは−1であり、生命物質体は+1である。
 −1とは氣のない、氣の生命エネルギーが欠落した物質状態である。
 【ここで、付加的に、カント哲学の超越論性について言うと、超越論的形式であるが、それは、この−1に関係しているものだと思う。凸i陽の極大化によって−1へと次元転換(氣の霊的次元から現象次元への転換)するのであるから、超越論的形式(悟性)とは、凸i陽と−1との統合した様態を指しているのではないだろうか。数式的に言えば、凸i×凹凹i⇒−1となろう。そうならば、それが、超越論的形式(悟性・知性)方程式である。


参照:http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11657621030.html


⓵氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)   ・・・Ⅱ


⓶自我方程式(自己同一性方程式):

凸i(陽)*凹i(陰)⇒−1(=e^iπ) ・・・Ⅶ

追記:自我方程式であるが、それは、同時に、純物質方程式とも呼べると考えられる。
 因みに、カント哲学のアンチノミー(「矛盾」)であるが、それは、氣の方程式と自我(純物質)方程式の衝突を意味するのではないだろうか。ならば、カントの理性は、氣の方程式と自我(純物質)方程式の混同があると言えよう。PS陰陽論の視点から言うと、両者の衝突ないし混同は、MP(メディア・ポイント:つまり、ガウス平面の原点)で生起していると言えよう。これについては、稿を改めて述べたいが。】
 繰り返すことになるが、近代科学とは自我(純物質)方程式の科学であるということになる。そう、自我と純物質の結びついた、カント哲学的に言えば、超越論的形式(悟性・知性)の科学であるということである。 
 しかし、自我(陽凸iの極大:極陽)は、氣を抑圧しているので、当然、氣の反動作用を受けるのである。そうすると、それに対抗して、自我は反動作用をもつと考えられる。これは、超越的な氣の作用なので、自我は、反動的超越性を志向するようになると思われる。(ハマッキーとか、UFOとか、あるいは、「超越」的商品詐欺にハマるのは、この反動作用に拠ると思えるのである。)
 そう、結局、近代科学は、最初は正当な物質科学、つまり、近代合理主義であるが、それだけであると、氣を抑圧しているので、反動化する必然があるのである。だから、もともと、自我中心主義なので、暴力に狂気が入ってくることになるのである。
 だから、近代科学の正常な発達のためには、それを規定する必要があるのである。つまり、それは、自我(純物質)方程式に拠るものであり、自我と純物質の枠組み、限定されたものであるということである。思うに、哲学的には、カントが近代合理性を超越論的形式ということで、規定している、つまり、限界付けているのであるが、それをとりわけ日本の科学者は理解していずに、科学中心主義、科学絶対主義になり、マッド・サイエンティストになってしまう傾向が強いと言えよう。
 また、科学を進化させる必要があると言えよう。それは、氣という高次の存在を認めることで、高次科学に進化するだろう。物質包摂した氣・霊(精神)科学である。


3)氣と太陽(陽光・日光)

 
先に以下のように書いた。


*****


http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11657621030.html


氣☯⇒|光|+1   ・・・Ⅷ

と図式化しておく。
 説明すれば、氣(陰陽☯)が生命物質体(+1)を成形するとき、氣が成形した+1にぶつかったときに発生するのが光ということになる。つまり、氣が生命体にぶつかったときの反射が光ということになるのである。簡単に言えば、氣の物質体による反射が光である。氣の反射としての光ということになる。
 ここで、D.H.ロレンスの『天道虫』における「黒い太陽dark sun」のことが関係するのである。そこで、登場人物のディオニスは、目に見える光とは闇(いわば、超光である)が物質に当たったときの反射であると述べているのである。
 それに今述べた視点を入れれば、ロレンスの「闇」とは氣ではないのかということになるのである。黒い太陽dark sunとは、端的に氣の太陽ということになろう。しかし、氣(陰陽☯)そのものを氣の太陽として見るのは無理があるだろう。それは、単に氣でしかないのであり、太陽ではないからである。
 だから、太玄霊までを考える必要があるだろう。そこで、

太玄霊⇒氣(陰陽☯)    ・・・Ⅸ

を考えて、この⇒と氣の接点に氣の太陽(黒い太陽dark sun)を考えたい。
 だから、Ⅸに黒い太陽を入れて、Ⅷを合わせると、

太玄霊⇒|黒い太陽|氣(陰陽☯)⇒|光|+1 ・・・Ⅹ

となる。
 接点がわかりにくいので、・を入れる。

太玄霊⇒・|黒い太陽|・氣(陰陽☯)⇒・|光|・+1   

・・・ⅩⅠ


*****


氣☯⇒|光|+1  

とは、氣=陰陽(共振)が光を生むということである。
 この図式だが、日光は氣の副産物のように見えるが、今の時点では、そうではないと見る。

氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体)  

における⇒が日光ではないかと思う。つまり、氣のエネルギー体が日光ではないだろうか。アリストテレス哲学を使えば、氣のエネルゲイア(活動態)が日光となる。(ならば、同様に、氣自体は、デュナミス潜在態である。 )
 わかりやすく言えば、氣の現象が日光であるということである。そして、氣自体も存在するということである。
 つまり、不可視の氣と氣の現象である可視の日光が存在するということである。
 だから、可視の日光は、不可視の氣を内在しているのではないだろうか。
 次の氣の方程式を見れば、

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体) 

左辺が不可視の氣=陰陽極性ということになるのである。わかりやすく書けば、

氣(陰陽)⇒(=日光)+1(生命体)

となる。⇒(=日光)が上記とは決定的に異なる点である。
もっと簡潔にすれば、

氣⇒(=日光)生命体

である。
 記号がわかりにくいので、工夫する必要があるが。
 これで、これまで、私が述べていたように、日光には、生命情報があるということがよく理解できるだろう。つまり、日光は生命力の本質である氣を内包しているのであるから、当然、生命力をもつのである。飯山一郎氏が太陽凝視による生命力について述べているが、これでざっとは説明できよう。(松果体等について説明する必要があるが。)
 そう、もっと明快に図式化できるだろう。即ち、

氣⇒日光⇒生命体

である。
 では、人工照明の光はどう解明できるだろうか。それは端的に電磁波、物質波である。
 純物質の光である。それは、当然、−1に関係すると考えられる。つまり、陰陽共振ではなく、極陽主導の純物質事象である。
 そこには、氣はないのである。故に、人工照明による栽培は、氣の豊かな植物は成長しないと考えられるのである。


4)屁蜜反故呆倒による屁遺政痴暗遺痔崩


秘密保護法等の全体主義諸法の問題であるが、歴史は繰り返すというが、単純には反復はしない。戦前とまったく状況が異なるのである。変わらないのは、日本国内かもしれないが、海外世界の状況は全く異なるのである。ロシアの世界共同体的志向と米国の反戦争資本路線、その他があり、米国1国覇権主義は衰退しているのである。
 日本の戦前・戦中の国内外の状況を考えるべきである。
 当時は敵国を作れた。鬼畜米英であり、満州国建設という似非ユートピア主義があった。全体主義は憎悪の対象となる敵国が必要であるが、今日はどうだろうか。中国を敵国にしようとしているが、貿易的に、それは無理だろう。では、どこが敵国になるのか、ロシアは共産主義ではない。北朝鮮だろうか。しかし、強力な敵国にはなりえないだろう。では、何処?
 アベコベ氏の反動路線は、現実を無視した空理空論のところがあると考えられるのである。ドン・キホーテ路線である。空回り的なのである。
 とは言え、全体主義志向路線であることは確かであるし、暗黒路線である。
 また、国内の状況であるが、戦前・戦中において、大本営発表を盲信したようには、今日、盲信する人は、多くはないだろう。勿論、愚民が大半ではあるが、盲信はしないだろう。そう、魔刷塵が釈迦力に洗脳しようとしているが、国民は戦前・戦中のようには踊らないだろう。
 そう、アベコベ氏はなにか漫画チックなのである。もっとも、ここ20年ほどの日本の政権は漫画チックであるが。
 とまれ、平成治安維持法が登場し、警察国家にはなるだろう。
 しかし、戦前・戦中と同じではない。
戦前・戦中とは異なる最も大きな事態は、父権収奪戦争資本主義が追いつめられていることだ。
 そのいわば断末魔を担っているのがアベコベ反動政権である。そこのところを確と認識する必要がある。
 直観では、アベコベ政権は空回りして、空中分解するのである。何故なら、今や経済は、父権収奪戦争資本主義の時代ではなく、母権共生資本主義の時代であるからである。まったくのドン・キホーテの阿呆屁゛政権である。


追記:マルクスの有名な警句があった。歴史は二度繰り返す。一度は悲劇として、二度目は喜劇として。違った。「一度は悲劇として、二度めは茶番として」である。茶番ということである。


以下を参照:
ヘーゲルはどこで「歴史は二度現われる」と言ったか?
 「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、一度は悲劇として、二度めは茶番として、とつけくわえるのを忘れた。」(マルクス・エンゲルス全集第8巻P.107)というのは、マルクスが1851〜52年に執筆した論文『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』の、あまりにも有名な書き出しです