心の光と自我

心の光と自我


テーマ:太陰イデア論:哲学的超科学理論(仮説)


エゴイストは心の光のない人である。
 心の光とは、陰陽球の陽であろう。
とまれ、心は陰陽球にならないといけないが、自我のために、抑圧されているのである。自我は心を抑圧するのである。
 逆に言うと、自我は心の光を恐れるのである。そのため、心の光に暴力的な態度をとるのである。
 これが、社会問題の根本的力学だと思う。
 資本主義は自我中心主義であり、心の光を抑圧するのである。そのため、暴力社会となるのである。
 ところで、日光であるが、それは、陰陽球であると言ったが、外部は光子であり、内部が陰陽共鳴である。
 心の光は太陽光線に、自身と同じ、心の光を見いだすように思われる。
 私が以前、超越光と呼んだものは、この心の光(心光)だと思う。
 そう、宗教上の光もこの心の光のことを指すように思われる。
 これは、太陰と陽の調和バランスを意味するのである。
 問題は自我である。私が批判するのは父権自我であり、それが、心の光を抑圧するのである。
 もう一つ、母権自我がある。それは、心の光を肯定した自我である。主になるのは、心の光であり、自我は二義的である。
 父権自我は自我中心、自我主体であるために、心の光の
差異を肯定できないのである。
 自我の同一性を心の光に押しつけてしまい、心の光を自我化してしまうのである。
 現代の日本人の大半がこのタイプに陥っていると考えられる。
 太陰人体論から言うと、肚にベースを置くことで、心の光と自我のバランスがとれるようになると考えられる。
 光の知覚から言うと、自我は外部の光、物質的光のみを感知し、陰陽の光、つまり、エーテル(生命)の光を感知しないと考えられる。
 日本人が自然から切り離されているのは、この陰陽光、生命光(エーテル光)を感知できなくなっているからである。
 物質主義の都市文明に慣れて、心の光をもつ自然文化を喪失しているのである。
 そう、物質的自然以外に、根本に、心的自然があるのである。これこそ、生命的自然である。
 今日の科学は物質的自然科学であり、生命的自然科学がないのである。
 太陰人体論のこれまでの探究から、陰陽球が光の球であり、この外在性の物質しか、光子しか、これまでの科学は見ていないということになるのである。陰陽球の陰陽という気、エーテルを見ていないのである。
 後で、シュタイナーの説くアストラル体(欲望、感情)について、太陰人体論から検討したい。


参考:陰陽球については以下を見られたい。

* 陰陽球=日光=気(陰陽球内部)+光子(陰陽球球面・表面) (08/25)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-2002.html



* 陽と日光と電磁波:日光の物質現象界への刻印を電磁波として観測するのだろう (08/21)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-2001.html



* 生命エネルギーと生命情報の二元論の解消:太陰=デュナミス的イデアと陽=エネルゲイアイデア (08/17)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1999.html



* 気と光(陽光)と生命体と物質:陽=日光=生命と四元数時空四次元とトーラス (08/13)

http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1998.html