陰陽球=日光=気(陰陽球内部)+光子(陰陽球球面・表面)
陰陽球=日光=気(陰陽球内部)+光子(陰陽球球面・表面)
テーマ:太陰イデア論:哲学的超科学理論(仮説)
陰陽球について:球面をどう見るか:半透膜としての球面:陽且つ光子としての日光
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11599003256.html
以上の追記を独立させる。
追記:
球面を半透膜とすると述べたが、半透膜にする必要がないかもしれない。
結局、陰陽球の内部を気そのもの、球面外部を日光としたらどうだろうか。
生命体は、この陰陽球=日光を受容するので、実際は日光と同時に、陰陽球の気を受容しているということになるのではないだろうか。
明確にするため、陰陽球の内部を気=生命情報エネルギー(生命イデア・エネルゲイア)、球面外部を光子(電磁波)とし、併せて、日光としよう。即ち、
陰陽球=日光=気(陰陽球内部)+光子(陰陽球球面・表面)
である。
そして、今日の自然科学は陰陽球の球面表面の光子のみを捉えているに過ぎないということになる。
陰陽球について:球面をどう見るか:半透膜としての球面:陽且つ光子としての日光
テーマ:太陰イデア論:哲学的超科学理論(仮説)
陰陽球について:球面をどう見るか:半透膜としての球面:陽且つ光子としての日光
今日は余裕がないので、一言。
直近において、陰陽球の内部を陰陽界、そして、球面を光子と見た。
なにか疑問がある。
それ以前では、球面は陽=日光=生命=1であった。
今の直観では、陰陽球自体は球面を含めて、内在超越界である。
そこから、現象界が出現するのである。
現象界は内在超越界とは不連続である。
あらたな発想を得たので、それを記す。
球面を一種半透膜とするのである。球面裏面は陽であり、陽が球面半透膜を越えて出てくると、日光になるのである。だから、日光は陽の要素をもつと同時に、物質現象的に光子(電磁波)なのである。
つまり、日光は陽且つ光子なのである。ただし、純粋な陽ではなく、半透膜を越えた陽である。だから、準陽としよう。準陽と光子の混合体である。
とまれ、陽であり、光子であるという、一種の即非体である。
このメカニズムを明らかにする必要がある。
これは後で考察検討したい。
追記:
球面を半透膜とすると述べたが、半透膜にする必要がないかもしれない。
結局、陰陽球の内部を気そのもの、球面外部を日光としたらどうだろうか。
生命体は、この陰陽球=日光を受容するので、実際は日光と同時に、陰陽球の気を受容しているということになるのではないだろうか。
明確にするため、陰陽球の内部を気=生命情報エネルギー(生命イデア・エネルゲイア)、球面外部を光子(電磁波)とし、併せて、日光としよう。即ち、
陰陽球=日光=気(陰陽球内部)+光子(陰陽球球面・表面)
である。
そして、今日の自然科学は陰陽球の球面表面の光子のみを捉えているに過ぎないということになる。
気的物質身体の構成について:日光の二重性:内在超越原理としての陽=生命と球面の光子
テーマ:太陰イデア論:哲学的超科学理論(仮説)
気的物質身体の構成について:日光の二重性:内在超越原理としての陽=生命と球面の光子
気と生命物質体の関係力学に関して、決定打が出ない。
あと一歩のところではあるが。
佐野千遥氏の唱える単極磁石をベースにして、それと太陰を結びつける考え方がありうるが、今はそれをとらない。
私の直観は、陰陽球の内部がデュナミスの気であり、球面がエネルゲイアの気である。
そして、球面は電磁波である。物質である。しかし、あくまで、球は陰陽球であり、内在超越原理である。わかりやすく言えば、陰陽球が球面において光子になっているということである。
これが端的に、陽=日光=生命=1⇒光子である。つまり、日光は内在超越的には、陽=生命=気であるということであり、感覚的には光、物質的には光子ということになる。
通常に目にする日光は感覚物質的には光子であるが、内在超越的には、陽=生命であるということである。日光はだから、両面的なのである。内在超越的には生命=陽であるが、球面外在的には光子という物質なのである。
単なる物質光と日光の違いは、内在超越性の陰陽性があるか否かにある。
とまれ、陽=生命を失った光は単に物質となるのではないだろうか。
以上ざっとであるが、陽=生命=日光の両面性を提示して、気と物質の違いを構成的に説明してみた。
後でさらに検討したい。
気とは生命体の全体力ではないか:生命体を統括する気と生命体の末端である物質
テーマ:太陰イデア論:哲学的超科学理論(仮説)
気とは生命体の全体力ではないか:生命体を統括する気と生命体の末端である物質
気とは総合的な生命情報エネルギー体ではないのか。
身体の全体を通貫している内在超越原理ではないのか。
物質科学は部分を独立させる。
しかしながら、実際、生命体全体を統括的気が通貫しているのではないだろうか。
これは、中国医学、東洋医学の考え方である。
ならば、陽=日光=生命=1には統括・包摂的生命情報エネルギーがあると考えられよう。
仙人は、これと共振・共鳴しているのではないのか。
とまれ、この総括的気=生命イデアは物質現象として発現する。しかし、唯物科学は、単に物質現象を捉えているだけで、根本の統合的気=生命イデアをまったく無視していると考えられる。
気=生命イデアから見ると、物質とは生命体の部分的末端・末梢に過ぎず、いわば、生命体の材料に過ぎないだろう。
物質科学から生命を見るのは、いわば、本末転倒と言えよう。物質科学は生命の科学ではなく、死の科学である。
気=生命イデア科学が必要である。