急速・急激にゾロアスター教的状況化する現代日本社会:顕著な善悪二

急速・急激にゾロアスター教的状況化する現代日本社会:顕著な善悪二元論化:独善的父権自我化:全体主義への道:悪魔アーリマンの憑依と悪の善化を目指す日本マニ教


半年ぶりの帰省だが、もっとも、川や海に行ったのは、昨夏ぶりであるが、ゴミが一年前に比べて、急増した感じだ。空き缶、ビニール袋、等。人心が急に悪化したようだ。
  また、非を咎め、排除・排斥しようと攻撃的な人が多くなった。人心から寛容性が急速に失われていると診断できる。他者を排除する自我同一性主義の善悪二元 論の力学が強化されていると言える。これは、全体主義状況である。社会閉塞状況である。オーウェルの『1984年』状況である。
  この父権自我化であるが、史的に見ると、狭く見ると、1976年の自我悪魔化の帰結であるが、広く見ると、明治父権自我化の帰結であるが、明治父権自我化 とは、父権自我主義である国学イデオロギーに拠ると考えられる。これは、日本父権民族の自民族中心主義イデオロギーでもある。ヤハウェ父権自我悪魔化とい うことになるが、これは、古代、日本に渡来したユダヤ民族の宗教観念の帰結ということになるのだろう。慎重に言えば、江戸時代において、母権と父権の結合 体であった日本民族が、分裂し出し、新父権主義化と新母権主義化の二つの志向性が生じたのではないかと推測できる(参考:ベースの母権民族と渡来遊牧父権民族の結合としての日本複合民族 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11596330553.html)。そして、明治維新は前者が後者に勝 利したものであり、萌芽した新母権主義【日本ルネサンスの芽と言えよう】が抑圧排除隠蔽されたと考えられる。第二次大戦は新父権主義に拠るもので、多くの 新母権主義の人間が戦死した。敗戦後、GHQによってまた、新父権主義が強化されるが、民主化によって、新母権主義が自生的に再興する。つまり、敗戦後、 1976年まで、約30年間、新父権主義と新母権主義の拮抗が続いたのであるが、その後、国際戦争金融資本によるヤハウェ父権自我悪魔主義によって、無自 覚的な新母権主義が抑圧されて、新父権主義が増強し、ここ一二年の間で、ヤハウェ父権自我悪魔主義が支配したように考えられる。どうも、アーリマンという 悪霊が憑依するように思えるのである。全体的に、社会一般的に憑依されているので、日本人は憑依されているのに気づかないようである。
 とまれ、いよいよ、日本黙示録的状況になったと言える。当ブログの旧名は、Japonesian Trans-Apocalypse、つまり、「ヤポネシア黙示録を越えて(脱日本黙示録)」であったが、今や、Japonesian Apocalypse(日本黙示録)である。
 簡単に言えば、支配層や大都会層(とりわけ、東京層)は悪魔、民衆層、地方層は天使と見るべきである。
 もっとも、悪魔を善化させるのが、日本マニ教徒の義務・責務であるが。





言語精神文化の誕生:言語と精神(感性、気、魂、霊)の相互形成

近代主義は、カント哲学が明らかにしたように、超越論的外在主義である。自然科学に見られるように、物質中心主義であるが、物質主義は超越論性という主観性に拠っているのである。
 この超越論性は、同一性主義ないし自我同一性主義であり、差異、他者を排除するのである。もっとも、カント哲学は、それを越えて、理性、アンチノミーを問題にしているが。
 結局、メインストリームの近代主義では、物質主義を越えられないと言えよう。結局、精神性を培うには、精神言語文化が必要なのである。精神を説く言語文化によって、読者は精神文化の確認ができるのである。精神文化の学習をするのである。
  今日、言語文化が貧困である。それは、近代科学主義が主流であるからである。精神文化を取り戻すには、言語精神文化が必要である。ルドルフ・シュタイナー の霊学はそのようなものであるし、反近代的言語文化もそうである。言語精神文化の観点から、文学、哲学を含む人文科学、歴史、政治経済を含む社会科学を捉 えなおす必要がある。





気身体力学について:生=気的反エントロピーと死=物質体的エントロピー


陽=生命=気を物質から区別するため、生命イデアないし気イデアという用語を使用する。(生命霊、気霊でもいいが。)
 生命イデアは生命現象を生み出す。生命現象は生成と同時に排出を意味しよう。
生成は反(逆、負)エントロピーであり、排出はエントロピーを意味しよう。
 前者は生命イデア的生命体を意味し、後者は脱生命体、脱生命イデア的物質体を意味しよう。前者は、イデアエネルゲイアで、生命の更新であり、後者は、イデア・エンテレケイア、廃物、死である。肉体と排泄物と言ってもいい。もっと簡単に、生命と物質である。
 今日の自然科学は後者を対象にしたものであり、前者そのものを見ていない。死体・死物・廃物科学である。生命体科学がないのである。(飯山一郎氏の乳酸菌免疫論、太陽肉体 健康論は生命体科学に属すると言えよう。)
 とまれ、太陰イデア論では、生命体科学は、太陰イデアによる陽=生命による生命現象を対象にすると言えよう。陽=生命は太陰に賦活されているのであり、太陰への螺旋的回帰が生命力学の本質と思える。
 これは、逆エントロピーである。熱力学第二法則に反するものである。そう、生命の本質は反物質体である。(今、ダーク・マターを想起した。)
 とまれ、生成と排出の二元論的力学を考えたい。
 ここでは、数学的にベクトルを考えるといいのではないだろうか。即ち、

         生命生成(生命物質体)・・・逆エントロピー
               ↗                         
生命イデア⇒生命生成・廃物⇒
               ↘
         廃物(死物的物質体)・・・エントロピー

である。
 結局、生命体科学と死物科学の二種類の科学が考えられるが、今日の科学は当然、後者である。前者はメタ・サイエンス、トランス・サイエンス等と呼ばなくてはならないだろう。
 とまれ、生命イデア・エネルギーが抜けるとき、生命体は廃物を生み出すであろう。そう、老廃物である。
 この点については、後でさらに検討したい。

参考:
ネゲントロピー - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ネゲントロピー‎
ネゲントロピー (negentropy) は、生命などの系が、エントロピーの増大の法則に逆らうように、エントロピーの低い状態が保たれて ... もし生命が系として孤立しているとすると、エントロピーは限りなく増大し(たとえば老化現象)、反対にエントロピーが下がること、 ...


高嶋康豪博士への理論的援護射撃と正統派現代物理学に対する鉄槌 ...
ameblo.jp/allahakbar231/entry-11545859129.html‎
2013/06/06 - フリーエージェント世界革命を提唱するフリーエージェント大学ロシアの有名人・ドクター佐野千遥教授-Ameba ロシアの ... 現代物理学に対する一貫した体系的物理学的批判を完了しており、新しい反エントロピー物理学の提起も完了している。





検討課題:1.気的心身体、2.意識と気と身体


テーマ:太陰イデア論:哲学的超科学理論(仮説)


今日は疲れているので一言。

1)気の領域であるが、それは心であり、また、感覚身体である。
いわば、心身体としての気である。心と身体の境界領域である。
 
2)意識力学の問題がある。
自己意識がある。それは、寒い、暑い、痛い、痒い等々の身体感覚と結びついている。
つまり、意識と感覚はつながっている。唯物科学では、神経がつないでいると見るのである。
 しかし、心的現象から見ると、それをつないでいるのは何かと考えるのである。そう、心的力学の問題である。
 それは気であると仮説しよう。意識と感覚をつないでいるのは気であるとするのである。
 だから、気識という言葉を作るといいかもしれない。そうすると、
意識―気識―感覚という図式ができる。
 そして、気識は、単に体内だけでなく、体外にもつながっていると考えられる。気識は自然、宇宙と通じていると考えられる。
 しかしながら、近代合理主義・近代的自己は、気識を排除しているのである。
 思うに、気識はコスモスの感性である。秩序的感性である。陰陽バランスをもつ感性と思われる。また、健康に関わる感性と思われる。また、美的、芸術的感性と思われる。また、倫理・道徳の源泉と思われる。また、神秘性、霊性ロマン主義の源泉もここにあると思われる。
 太陰イデア論では、気識のベースは肚に見ているのである。一般には、気識は、せいぜい、胸の心に留まるだろうが、太陰イデア論では、肚が気識の基盤である。
 問題は、気識と身体の関係である。多くの病気は気識の抑圧、排除、隠蔽に関係しているように思われる。
 医療的には、気識と身体の物質的構成の科学が必要である
 これまでの考え方では、気的有機体としての肉体科学が必要である。
 今はここで留める。