陽は個体・個物の原理であり、同一性の原理ではないのか:太陰は多元

陽は個体・個物の原理であり、同一性の原理ではないのか:太陰は多元差異の原理では?


テーマ:太陰イデア論:太陰プラトニズム


これも検討課題である。
 陽が個体・個物の原理であると思えてきた。球を作るのであるから、それは考えられる。例えば、リンゴの個体を作る原理である。それは、同時に、物質原理でもあろう。正確には、生命体原理である。
 わからないのは、インディヴィジュアリティindividualityの原理である。それは、以上からだと陽の原理のように思えるが、果たしてそうか。
 先に、個とは、太陰をベースにした、陽と共立したものと述べた。
 思うに、ここで混乱が起きるのである。(追記:以下の説明からわかるように、インディヴィジュアリティindividualityの原理とは、一般には、私の説く個の原理と陽のもつ個物・個体・同一性の原理と極陽のもつ唯一的自我の原理の三者が混同していると思われる。しかし、私は、個の原理は、太陰をベースにした陽と極陽と共立した原理であると考えるのである。)
 とまれ、陽は個体・個物、そして、同一性の原理としよう。そして、極大化された陽、即ち、極陽は自我の原理であり、それは、唯一性の原理ではないのか。一神教ではないのか。
 唯我独尊の原理ではないのか。
 それに対して、太陰は異なる。他者の原理であり、マルチ、多元の原理である。多神教の原理である。差異の原理である。
 もっとも、太陰が展開して、陽を形成するのであるが、太陰と陽とは不連続である。そして、なおさら、極陽とはそうである。
 もっとも、極陽も太陰が創ったものである。
 つまり、太陰は自分とはまったく異なる陽と極陽を創るのである。
 つまり、太陰は不連続に、陽(個体・個物・同一性・物質)の原理を創り、また、極陽(自我、唯一神、超越神)の原理を創ると考えられるのである。
 とまれ、極陽であるが、それは、同一性のさらに展開としての唯一性である。でも、それは独自性、独創性とは異なる。
 極陽の唯一性とは、他者否定の独一性に過ぎない。
 陽について正確に言うと、それは、根っ子として、太陰をもっていると思う。正に、陰陽体である。植物で言えば、気という太陰をもっているということである。
 後で精緻に検討したい。



自我とは何か:自我は一神教的であり、太陰は多神教的だと思う


テーマ:太陰イデア論:太陰プラトニズム


後で検討したい。自我は今日の大問題点である。
 一言言えば、自我は、他者を否定する同一性である。極陽ではないだろうか。陽は悟性(知性)、同一性である。陽が極大化したとき、極陽となり、太陰は消える。しかし、他者を同一性で処理しようとして、他者を否定するのが自我ではないか。

 
追記:先に言ったが、ヤハウェは、極陽だと思うのである。ヤハウェが自我原理ではないのか。そして、金融資本主義の原理でもあるし、唯物論の原理でもあるように思えるが。


追記2:女性がヒステリー、狂信的になるのは、無意識の太陰のなさせる業ではないだろうか。つまり、無意識の太陰が自我に取り込まれてしまい、自我絶対的になるように思えるのである。


追記3:先に示唆したが、ヤハウェ=アーリマン(悪魔)=自我=父権主義の図式が成り立つように思えてしまうのである。
 私の父権主義批判の意味合いがこれでおわかりいただけるだろう。



気的生命体と生命物質体の関係力学について:気と物質:陽が物質?


テーマ:太陰イデア論:太陰プラトニズム


意識と気の関係:意識・知意識・明識(認識)VS感識・感意識・暗識(気識)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11576485698.html


上記では、レタスを事例にして、気と物質との連関について触れたが、両者の実際のメカニズムについてはまだ何も述べていないので、解明する必要がある。
 シュタイナーの霊的生命学において、やはり、この点が不明なのである。生命物質体と気的生命体(エーテル体)の二重性は述べているが、両者の具体的なメカニズムについてはほとんど触れていないように思える。
 簡単に言えば、気が物質になるメカニズムの解明である。でも、ある意味では既述済みであろう。でもすぐ思い出せないので、新たに記述する必要があろう。
 そう、今一言言えば、陽が物質と言えるのではないだろうか。
陽が太陰から切り離されたときが、純粋物質のように思える。
 つまり、生命体とは、太陰ー陽の陰陽体であるが、それが死ぬと、つまり、太陰のエネルギーを喪失すると、太陰による生命形成エネルギー(気=生命智エネルギー)がなくなり、陽だけが残存するようになると思われるのである。生命体の残骸物、形骸物である。
 しかし、果たして、陽をそのまま物質と呼んでいいのか疑問が残る。
 少なくとも、太陰を喪失した陽が物質であると言えるように思われるが。
 今は問題提起が主であり、精緻な検討はこれからの課題である。