自我とは何か:太陰が陽を作り、陽から独立した超陽である自我(男

自我とは何か:太陰が陽を作り、陽から独立した超陽である自我(男性原理)は太陰(女性原理)を恐れる


テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス


自我をどう捉えるのか、きわめて重要な問題である。
 私は自我を陽に便宜的においているが、実は純粋な陽ではなく、超陽、あるいは、陽の極大的なものとして考えているのである。
 だいぶ前に書いたように、陽は光となり、物質を形成するものであり、そこにおいて、量化が為されて、同一性、プラスとマイナス、NとS等が形成されると考えられる。可視の世界を作るのである。
 現象界の形成において、私は陰陽共振のことを言った。しかし、今の不連続的太陰ヴィデア論(簡単に、太陰ヴィデア論とする)において、陰陽共振を現象界の形成要因と見るのかどうか、まだ検討していない。
 しかし、やはり、陽が陰へと再帰することにおいて、陰陽共振が発生し、そして、螺旋生命物質体が形成されると考えることができる。
 思うに、陰陽共振から連続的同一性が形成され、物質力学、物質が形成されるように思われる。
 連続的同一性は、同一性力学=物質力学を形成する。それは、例えば、プラスとマイナスの対立構造(「二項対立」、構造主義)を作ると考えられる。具体的には電気を考えればいい。(ここにおいて、PS理論の公式凸i*凹i⇒+1が成立すると考えられる。)
 このとき、陽と陰は対立原理であるが、結合(シナジー化)して、物質形成するのである。
 しかし、ここには自我の原理はないのである。
 確かに、自我は同一性となる陽と結びついている。同一性となる陽と関係するのは、否定となる陰である。ここで一時ストップする。
 どうも正確に述べるには、大陰(だいいん)と大陽(だいよう)、そして、陰と陽、あるいは、陰と陽のペアと小陰と小陽のペアの二種類の陰陽に分けた方がいいようである。とりあえず、後者の用語を使用する。
 結局、陰陽共振において、次元転換によって、螺旋形成が起こり、小陰と小陽の対立原理が形成される(例えば、DNAの二重らせんの対立を考えるといいだろう。)。
 そう、小陰ー小陽対立原理(構造主義)が、物質原理であり、そこには、自我はないのである。
 自我は、物質原理以前の陽に存すると見よう。しかし、次元転換点(これをMP、メディア・ポイントと見るのか?)を介して、自我は物質界にも作用していると思われるのである。
 さて、陽=自我であるが、それは、闇=太陰=他者を恐れるのである。何故なら、陽は陰から派生したものであり、陰の言わば、一部として、陽は存するのであり、陽を超越した存在が陰であるからである。
 ここにおいて、陽は陰を否定し、且つ、排除するのである。単なる否定ではなく、排除なのである。暴力である。
 物質原理の小陰ー小陽の対立原理の否定は、排除ではない否定である。排除どころか、牽引となる否定である。プラスとマイナスは牽引するのである。
 しかるに、陽の陰に対する否定は、排除なのである。あるいは、破壊である。これは、まったく、物質の対立原理とは異なるのである。
 さて、ここで、不連続的太陰陽ヴィデア論(新たな造語)の視点に返ると、太陰が主導的であるときは、陽は太陰に属しているので、自我は独立していないので、排除・破壊的ではない。これは、母権世界である。
 しかし、父権世界になると、陽=自我が主導中心化して、太陰=母から独立し、分離する。そして、太陰=母を排除・破壊するのである。
 この主導中心化し、独立した陽=自我は、言うならば、超陽であり、悪である。悪魔的である。悪魔自体かもしれない。シュタイナー霊学では、アーリマンである。(私はヤハウェはこれではないかと思ってしまうのである。)
 陽=自我の独立化の原因については、稿を改めて論じたい。
さて、以上、自我を不連続的太陰ヴィデア論から説明を試みた。
 ここから、近代的自我はどういうものかよく理解できる。即ち、独立した陽=自我が物質原理、小陰ー小陽対立原理と結びついたのであり、主体は陽=自我であり、様態は小陰=小陽対立原理=物質原理である。陰=他者の排除・破壊が徹底してあるのである。近代的自我あるいは、近代合理主義は悪魔主義である。
 しかしながら、太陰=陰=他者は存するのであり、それは、心的に浮上するのである。反近代主義はそのような意味合いをもつのである。わかりやすい例はロマン主義神秘主義、オカルト主義、深層心理学である。
 この太陰の力学であるが、陰陽円を考えるといいのかもしれない。あるいは、陰と陽の振動である。
 西洋文明は陽、超陽の文明であるが、しかし、陰、太陰が出現した。つまり、陽から陰への転換点の意味合いがあると考えられる。
 超陽が排除・破壊した、太陰=他者が復活する力学をもった文明である。
 そう、端的に、新東洋文明を示唆しているのである。易で言えば、陽極まりて、陰に転ずである。
 太陰の復活の文明を示唆しているのである。
 しかし、超陽=自我の力学は強力であり、太陰の再出現を阻止するのである。
 因みに、シュタイナーは20世紀の初期から、エーテル体において、キリストが見え始めると述べたが、キリストとは太陽霊であり、それは、太陰から生まれる純粋陽のことと思われるのである。太陰から火の鳥が復活するのである。(D.H.ロレンス哲学文学とはその象徴である。ただし、超陽=自我と太陰が未分化的だったために、リーダーシップ小説において、反動的になってしまった。)
 最後に、心の病(心病と言おう)であるが、それは、超陽=自我が再出現する太陰=他者を排除・破壊せんとする反動力学から生じているように思えるのである。
 現代日本人の自我病はこの心病であると考えられる。




共情、共心の問題:知情意:頭と胸と肚:3分節的身心:不連続的太陰ヴィデア論


テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス


情とはいったい何だろうか。今日、日本人に一番欠落しているのは、情である。情の海、情の川、情の泉等が消失している。
 とは言え、先に触れたように、陰陽において、胸情はどう説明できるのかが問題である。
 私の経験、不連続的差異論が生まれる以前の私の心的様態について考えるのがいいだろう。
 自我の私(頭我)と心の私(肚ベースの胸)の二つに分かれて、前者の否定性を後者で抑えていた、あるいは、鎮静させていた。
 不連続的差異論はこの二つが不連続であることを確認することに存するのである。前者が陽で、後者が陰とすると、陽と陰との不連続性である。そして、陰は不連続的差異になるのである。
 肚のベースのはたらきであるが、胸の共感性(共情性とも呼びたい)の純粋性を保持する面があると思う。自我による反感が生じるが、それによる共感性の濁りを肚の基盤に返ることでなくし、純粋さを保持するである。
 そう考えると、胸は陰陽の中間領域にあると言える。
 結局、自我(陽、正しくは超陽)は、陰陽バランスを破壊するものであり、その調和を維持するために肚の役割があるように思えるのである。陰陽バランスにおいて、胸の共感性(共情)が作用するということではないだろうか。
 つまり、陰陽的身心において、胸の調和が形成されているということになるだろう。つまり、陰陽様態において、胸の純粋共感(共情)が存するのであり、それが自我によって、歪曲されるのであり、その矯正には、肚の働きが必要になるということのように思える。
 肚は太陰=闇であり、それが、陰陽調和の胸の共感・共情を保持する作用をするということになる。
 以上のように考えると、胸=共感・共情性とは、新しい陰陽論、つまり、太一=太陰=闇論から説明できることになる。
 思うに、肚=闇=母(「父」)、頭=光=子、とすると、胸=共感性=聖霊という新三位一体が成り立つように思える。
 ということで、不連続的陰陽ヴィデア論であるが、新陰陽論であるから、不連続的太陰ヴィデア論と陽を抜いて呼ぶことができるかもしれない。あるいは、不連続的新陰陽ヴィデア論である。