初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。

初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である。


テーマ:不連続的陰陽ヴィデア論:イデア=エイドス


注:以下の記述は次の追記の転載である


続「光とは何か」:肚から大空への放光:個の道と自我の道:陽から陰へと陽から外光へ
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11544151281.html


追記:陰の中心から陽の円周ないし球面への方向が天の方向ではないだろうか。樹木が伸びる方向である。
 陽の天、光の天は至高の美であろう。
 思うに、陽、光とは、陰、闇の頂点である。陰、闇は陽、光を求めたのである。それが、目的である。
 そう、この点に宗教や文化の光やそのメタファーの意義が存すと考えられる。
 マニ教の光とはそのようなものである。
 闇自体が光に変身するのである。
 しかし、問題は、その後の光の運命である。
 闇から生まれた光が、いわば、独立する。闇という根を失い、光の帝国、独裁を生むのである。
 言い換えると、光の物質化、光の自我化である。
 闇の根源を喪失した光が支配するのである。
 闇の光と単なる光を区別する必要がある。
 わかりやすいところでは、陽光は本来は闇の光であろう。そして、物質的光、例えば、電灯は後者である。
 太陽は思うに、両者の中間点である。闇の光と物質光の中間点である。しかし、前者が本質と思われる。
 そう、科学、自然科学は太陽の「表面」、外面しか見ていないのである。つまり、物質面しか見ていないのである。太陽の物質面とは、本来の太陽の外装部分に過ぎないと考えられるのである。
 科学、自然科学は、太陽の内面、本体を見ていないのである。それは、宗教で言えば、「神」であろう。天照大御神である。
 そう、太陽神は闇の光、そう、闇の光鳥とでも呼びたい。不死鳥、フェニックスはこの象徴であろう。天照大御神は不死鳥であろう。
 そして、赤く染められる日本の太陽であるが、それも闇という大生命の光を意味しよう。


初めに闇ありき、そして、闇は光となった。光は不死鳥である


http://moris.raindrop.jp/darkly_draws/wallpaper/2d3d_cg/8.html


 とまれ、この闇の太陽が、赤い太陽が、ドットドットドットと、ドクドクドクと鼓動を打っているのである。それは、宇宙の心臓でもある。
 血、血液であるが、それは、闇という大生命が光に化するときのエッセンスではないのか。闇の光のエッセンス。
 とまれ、物質の太陽の背後には、闇の太陽が潜んでいると考えられる。それが、太陽神として、宗教的に表象されてきたと思われる。霊学者のシュタイナーはキリストを太陽霊と考えているが、それは闇の太陽と考えられる


私は復活であり、生命である。


とキリストは言ったのが、闇の太陽は不死鳥であり、正に、その通りである。
 これで、すべての宗教は一致することが理解される。
 では、気とは何か。それは、やはり、闇の太陽の光ではないだろうか。闇の光である。
 しかし、闇自体と気はどう関係するのか。闇の力が気とも言えるだろう。しかし、闇の光が真の気のように思える。これは検討課題にしよう。


追記2:闇の太陽とはD.H.ロレンスの用語dark sunダーク・サンの訳である。黒い太陽と普通訳されるが、黒いでは、語弊がある。暗い太陽も語弊がある。闇の太陽が的確と考えられる。


新追記(これは本記事への新たな追記である):東洋の鳳凰は不死鳥、フェニックスと共通すると直観される。


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