不連続的差異論は認識哲学、PS理論は物質原理:無双陰陽原理は精神

不連続的差異論は認識哲学、PS理論は物質原理:無双陰陽原理は精神と物質の両者包含原理を目指す
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テーマ:プラトニック陰陽理論(無双陰陽原理)


今日も森(ゆかし森神社とでも呼びたい:ゆかし森とは私の勝手な名称である)のいつもの片隅(奥の細道参道入り口)で、思索した。
 その前に、『生物と無生物のあいだ』の冒頭を読んで、DNAの複製原理は、先に述べた(連続的)同一性=物質化理論で説明できると思った。同一物のコピーを作るのであるから、それは、同一性原理に拠るのである。


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 そこで、今は離脱したPS理論であるが、それは、物質理論であると考えられる。自己認識方程式i*−i⇒+1は、自己認識理論というよりは、同一性=物質化理論である。そう、認識的には、それは、自我認識理論であり、自己認識理論ではない。何故なら、それは、自我の反転を他者としているからである。
 つまり、PS理論は、物質理論、自我理論としては正当であるが、認識理論としては、不連続的差異論から後退しているということになるのである。
 私は差異共振を考えるのに、さんざん悩んだが、今にしてみれば、PS理論(ガウス平面付き)では、差異共振は説明できないのである。
 結局、不連続である他者を数学化することが困難だと思われる。私は数学については、素人なので、不連続な他者(不連続的差異)を数学化する方法がわからないのである。
 とまれ、私にとって、数学主導で哲学をすると、数学の形式に振り回されて、哲学的認識が弱くなるのが判明して、私はPS理論から離れた。
 その後、無双陰陽原理を唱えることになったが、プラトンの著作を再読して、プラトン哲学・イデア論が原理的に近いことがわかり、プラトニック陰陽理論と改名した。しかし、無双陰陽原理は括弧に入れておきたい。
 とまれ、同一性=物質化理論にたどり着いて、理論的問題点が明快になった。即ち、精神原理と物質原理が混淆していたことである。
 言い換えると、不連続的差異論に回帰したということである。ここから考え直す必要があるということである。(だから、2004年から2012年まで、約8年迂回したことになる。)
 簡単に言うと、繰り返しになるが、陰陽螺旋的生命形成がある。それを同一性=物質化が装っている。物質装備である。
 それは、気的螺旋が「内部」にあり、外部は物質的螺旋形態であるということである。
 陰陽螺旋であるが、それは、差異共振であると考えている。言い換えると、陰陽共振であり、陰陽同一性=物質化ではないのである。ただし、「外部」は後者である。
 とまれ、ざっとであるが、不連続的差異論に回帰して、同一性=物質化原理と陰陽螺旋=差異共振原理の二つが明確になったのであり、理論的には回帰して、進展したことになる。
 さて、理論名称であるが、新たに、プラトニック陰陽理論(無双陰陽原理)としたが、不連続という言葉は、捨てがたいのである。それを使用するならば、プラトニック不連続的陰陽理論Platonic Discontinuous Ying-Yang Theoryとでもなる。(しかし、もう一度、不連続的差異=不連続的他者の意義を考えるべきであるが、これは課題にしておく。)
 最後に簡単に整理すると、陰陽イデアがあり、それが、生命イデアである。それが、同一性=物質化原理によって、生命物質体を形成する。基本的には螺旋形状である。
 しかし、陰陽イデア=精神原理は、向上を目指しているのである。螺旋的回帰という向上を。
 それは、物質化することによって、いわば、汚染されるのであるが、その汚染によって苦悩・苦労するのである。そう、自我の原理、物質の原理を帯びるのである。自我ー物質の原理に陥りつつも、陰陽イデア=精神原理は内在・潜在しているのである。
 ここに矛盾があるのである。
 同一性=物質化して、陰=他者が失われるのである。しかし、陰=他者の肯定によって、再び、陰陽極性が回帰すると考えられる。(なにか、ヘーゲル哲学に似ているが、陰=他者は不連続的差異である点で異なるだろう。この点は要検討。)
 結局、陰陽イデア=精神原理の向上とは、自我原理になった後に、他者肯定を学び、再び、陰陽極性原理へと回帰することと考えられる。つまり、同一性化⇒他者化による陰陽共振原理への回帰である。
 雑駁な感もあるが、ここで留める。