トランス・サイエンス文明の新時代、気の復権の革命的意義、ミクロコ

トランス・サイエンス文明の新時代、気の復権の革命的意義、ミクロコスモス–マクロコスモスと無双陰陽原理



1)トランス・サイエンス文明の新時代
 科学は、より厳密に言えば、自然科学は、真理としては、証拠として、物質的再現性が要求される。言い換えると、仮説にたいする反復できる物質的検証が絶対的要請である。
  しかしながら、それは、陽=頭脳=自我のもつ同一性の原理に基づく考え方である。それは、陰陽精神における、陽中心主義の精神であり、陰のもつ能力を軽 視、無視・看過した思考法である。(思うに、カント哲学における内観という視点には、陰に通じるものがあるように感じられるが、カントの直観はあくまで、 外界中心だと思う。)
 とまれ、陰とは、肚である。(胸や心としての心臓であるが、それは、太極に通じるMP【メディア・ポイント】として考えているが、それは陰陽分極・双極の均衡点・交流点であり、陰と陽の両面をもっていることになる。)
 肚は内界(神秘学では、ミクロコスモス)である。そして、直観・直感、(気的)感性、魂、精神、意志(おそらく)、情動、神秘、他の性質をもっていると考えられる。
  この陰の精神は、陽の精神のような同一性をもたず、差異・他者の領域であり、物質的同一性の視点が通じない世界である。故に、端的に、陽精神に基づく自然 科学の視点はここには、厳密には適用できないのである。(もっとも、物質的に、観測はできるのであるが、物質という枠を通してである。)
  無双陰陽原理は、陰領域を陽領域より重視するので、自然科学の視点は一面的であると考えるのであるが、陰領域を記述することはできるが、もはや自然科学の 証明法が使用できないのである。直観を重視した陰陽哲学科学、即ち、無双陰陽原理をトランス・サイエンスとして位置づけ、物質文明に堕した西洋文明を乗り 越えるトランス・サイエンス文明の到来を唱える次第である。
 もっとも、先に述べたように、トランス・サイエンスは、サイエンスを包摂して乗り越えた学知として位置付けられるのであり、サイエンスの営為を肯定するものである。ただ、唯物主義を否定するのである。


2)気の復権の革命的意義


私は20代初期から、心と物質の関係で大いに苦悩・苦悶した。初め、物質主義と心的理性論を結合すればいいと考えた。しかし、それは、明らかに折衷であり、統一した理論ではない。
 結局、90年代、故湯浅泰雄氏らの気に関する著書を読んで、気が物質的身体を超越することを確信し、私の知は革命的に進化したのである。それまでは、唯物論的枠組みに囚われていて、外界における物質的制限から逃れられなかったのである。
  ちなみに、西洋文明においても、実は気に相当するものは、近代史の出発点に出現したと思われるのである。それは、イタリア・ルネサンスである。フィチーノ の人間精気(スピリトゥス)は、端的に、気、あるいは、陰陽霊を指すと思われるのである。その後、ガリレオニュートンの機械論が支配的になり、人間精気 論は忘却されるのである。
 イタリア・ルネサンスとは何か。これは、南欧のもつ母権文化、陰文化の発現であったと思う。あえて言えば、東洋的なのである。

3)ミクロコスモス/マクロコスモスと無双陰陽原理


  今は余裕がないので、考察できないが、一言言えば、易の卦、即ち、上部の三つの爻と下部の三つの爻であるが、これは五臓六腑に関係すると思われる。内臓は内宇宙であり 、それは、太陽系の惑星に関係するようだ。
 そして、無双陰陽原理であるが、陰陽円において、折り畳まれた螺旋を考えると、陰領域に三つの陰体、陽領域に三つの陽体を想定することができる。これらを内宇宙=内太陽系の諸惑星と考えてみたい。
 そのときの問題は、太陽と地球の位置づけである。これまでの議論の流れでは、中心、MPに内的太陽を置くのが妥当であるが、そうすると、地球は、上部の陽領域になってしまうのである。
 地球を中心、MPに置くことも考えられるが、そのとき、太陽が陽領域に位置することになる。それは、また、これまでの議論にはそぐわないのである。
 結局、太陽と地球をどう捉えるのかということになる。
 どうも、両者は共通する要素があるのではないだろうか。つまり、交換可能な面があるのではないだろうか。そういう意味で、太陽地球、地陽球のような視点があっていいのではないだろうか。
 とまれ、今は問題提起に留める。





日本集団的自我とは何か:弥生農耕民族の集団主義を利用した支配的父権的自我である


テーマ:二つの日本民族:母権民族と父権民族


検討問題:日本集団的自我とは何か:弥生農耕民族の集団主義を利用した支配的父権的自我である


A. 集団的自我(半自我-半集団的自己、自我と集団の未分化的自己)と自我(父権的自己)と個の区別

 集団的自我というのは、日本人だけに存するとはいうことはないが、とりわけ、一般的には、日本人には、独特のそれが強いと思う。それは、半自我-半集団的自己とでもいうものである。
 それは、言い換えると、カメレオンのような自己であり、そのとき、そのときの場、状況に応じて、変身する自己である。言わば、一種のご都合主義である。風見鶏である。
 ただし、単純に変化するということではなくて、力関係、権力力学に応じて、変化するのである。自分が劣位な環境にあると思えば、優位なものに取り入るため、優等生ぶるのであり、逆に、優位な環境にあると思えば、劣位なものに対して、見下す、傲慢な態度をとるのである。
 ここには、自己同一性はないだろう。何故なら、環境依存の自我が存するのであり、自我、自己、個において、自立・独立していないからである。そう、明らかに、自我と社会環境との未分化な自我が存すると言えよう。
 そして、この未分化な自我(自己)が、日本の権力層や愚民層を占めていると考えられる。これは、父権・封建制(とりわけ、江戸時代の封建制、また、明治維新以降の中央集権制)と弥生農耕集団主義との融合によって形成された日本独特の自我(自己)であると私は考えている。
 この集団的自己であるが、直観的には、自我、利己主義と呼びたい。そう、当然、近代的自我ではありえない。何故なら、それは、自我的個体として独立していないからである。
 この非近代的自我である自我・利己主義の力学はいかなるものか。端的に、野放図な自我である。しかし、単に陽の自我だけでなく、陰の他者も存しているのである。しかし、あくまで、陽が主であり、陰は従である。陰は陽に利用されるのである。
 そう見ると、この集団的自己力学とは、基本が父権主義であり、それに集団的母権主義が付随していると考えることができる。
 だから、これは、支配者の力学であることがわかる。原日本の母権民族に進入したと考えられる父権民族の力学である。しかも、三つの母権民族のうちで、もっとも利用しやすい弥生農耕民族の集団文化を取り込んでいるのである。
 ということで、日本の集団的自我の力学が明らかになったと考えられる。
 この、言わば、集団的父権的自我は、当然ながら、今日、現代でも、支配的なのである。そう、ヘゲモニーをもっているのである。
 この体制を崩さないと日本人は自由になれない。そう、個として、自由になれない。
  私見では、日本的個の原形は、縄文民族、あるいは、ツングース系民族に存する。そして、日本伝統文化は、本来、個をベースにした共同性の文化であると考え ている。つまり、母権的個の文化、母権的個的共同的文化である。(これまで、個的共同体と呼んできたが、果たして、共同体と言えるのか問題がある。しか し、自発的共同・協働性はあると思う。)
 この母権的個的共同文化社会が明治維新、戦後、小泉政権後、破壊されてきた。日本人はまったく洗脳されていて、個的自由を喪失しているのである。
 とまれ、一言、処方箋を言えば、肚に帰れ!である。肚に母権的個的共同性の母胎があるからである。


B. オカルト学からトランス・サイエンス:


オカルト生理学 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

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シュタイナーの『オカルト生理学』は、無双陰陽原理によって、明解になると思う。ただし、「オカルト」という用語は、胡散臭いので、「トランス・サイエンス」とでもすべきである。即ち、『トランス・サイエンス生理学』である。


C. ミクロコスモス(内宇宙)とマクロコスモス(外宇宙)の照応:トランス・サイエンス=神秘学の奥義


これは、Bのシュタイナーの本の視点を、無双陰陽原理から読み直すとより整理
されるように思う。