自己と自我:虚数(精神)濃度と連続/不連続概念

自己と自我:虚数(精神)濃度と連続/不連続概念


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最近、自我病とでもいうべき問題を抱えている人が多いと感じたので、この点を復習になるが簡単に述べたい。
 端的に、問題点は連続性にあるのである。つまり、原精神、本精神、純精神の凸i*凹i(陽*陰)の二元性が実MP(精神的フィルター)によって、連続化されて自我が形成されるのである。
 本来、凸iと凹iは不連続であるが、それが、現象化したときに、連続態となるという倒錯を帯びるのである。つまり、現象存在としての人間は本来、本来の自己精神を喪失した存在なのである。これは、仏教等や哲学が説いてきたことであるが。
 ここでだいぶ以前に述べたユング心理学批判を再説するのは意味がある。
 ユング心理学のキー・ポイントは自我と自己(無意識、魂)との融合、結合、統合を説き、それが、個性化であるという点である。
 しかし、自我と自己との融合は、PS理論の視点からは、連続性を意味するのである。自我と自己という本来、不連続なものを連続化するのがユング心理学なのである。それは、精神を分裂させたままにするだろう。批判はここで留める。
 さて、PS理論では、自我と自己(ないし個)との不連続性を説くのであり、また、自己精神の凸i*凹iの陰陽的二元論、極性論を本来的なものとして考えている。
 前提は不連続性である。それは、自我と自己(個)とを能動的に切断することを意味している。これは、精神力学である。
 だから、PS理論的精神様態とは、自我的側面(物質的側面)と自己(個)的側面の二面性が併存しているのである。しかし、これは分裂ではない。
 何故分裂ではないかと言えば、自己本来の基盤、差異共振性を基礎して、その上に自我機能をもつからである。主は自己(個)であり、従は自我である。
 以上、簡単にPS理論的自己哲学を説明した上で、今日蔓延する自我病(造語)について簡単に述べよう。もっとも、以上の説明に既に答えは出ているが。
 結局、自我病とは、精神の極性を否定して、自己が連続化していることにある。つまり、自己の自然の現象態のままであり、自己陶冶を行っていないのである。
 他者である凹iが原自我・純自我の凸iに連続的に服しているのである。そのために、他者を暴力的に自我同一性化してしまうのである。つまり、他者を否定するのである。
 これは、ホッブズの万人の万人に対する戦争状態である。現代日本の社会生活、日常生活は完全にこのようなものとなっている。もっとも、少数の目覚めた(「ブッダ」)人たちがいるが。彼らが地の塩である。
 自我病の人が他者を自我中心的に攻撃するのである。それで、社会関係がささくれ立つのである。そして、自我(複数)がバラバラに存在して、社会はもはや共同体としての機能を喪失して、「民主主義」的権力が自我利益を出汁にして支配しているのである。
 自我人(造語)は、基本的には愚劣なので、自我を支配する権力者を選ぶのである(典型が小泉元首相)。そう、自我は正に、無明なのである。真理が見えていないのである。
 とまれ、連続性の誤謬と不連続性と差異共振性の基本的真理を説いたが、これとKaisetsu氏の虚数(精神)濃度概念はどういう関係になるだろうか。
 結局、不連続性/差異共振的自己の人間は虚数(精神)濃度が高い人(高濃度)であり、連続性の自我の人間はそれが低い人(低濃度)と言えるだろう。
 しかし、両者にはアルカリ性と酸性の違いがあるように、決定的な質的差異がある。
 不連続性/差異共振的自己(個)の人間はいわば、絶対的的高濃度人間と言えるのではないだろうか。あるいは、超越的高濃度人間である。
 水の三態で言えば、気化した人間であり、氣的高濃度人間とも言えよう。
 あるいは、光のモードで言えば、純光(*純闇)の人間と闇の人間の違いとなるだろう。
 とまれ、時代は明白に黙示録的様相を呈してきた。光の人間と闇の人間に明確に分かれてきた。
 最後に一言言うと、女性は本来、凹iをベースにしているので、不連続性/差異共振性を先天的にもっていると考えられる。しかし、男性主義・父権主義支配のために、それを否定して、自我主義に染まっている女性が今日多数であると思われる。
 しかし、本来的なものはいつまで否定されているわけではない。それは時代の力によって、新たに目覚めると考えられるのである。
 そう、女性ルネサンスである。
 

追記:自我病についてもう少し説明する必要がある。それは、うつ病とも関係する。つまり、自我的同一性が強力で、精神(精神魂)を否定すると、その否定された精神が反動的に自我を突発的に発作的に、そう狂気的に襲うと考えられるのである。近代的自我、近代合理主義がハイパーになった今日、否定、排除された精神(精神魂)が否定的衝動となって自我を襲うのである。それは端的に狂気である。
 その反動的精神力学であるが、それは、精神の極性力学が否定されているために、その極性力学が否定的エネルギーとなって自我を襲うと考えられるのである。
 うつ病の場合は、積極的な精神極性力学が否定されたままで、氣的エネルギーを喪失していると考えられる。しかし、今言ったことからわかるように、うつ病は攻撃的エネルギーを潜在していると考えられるのである。あるいは、鬱状態と反動的衝動が併存していると考えられる。
 結局、時代は精神の覚醒を要請していると言えよう。大都市はきわめて危険である。それは、物質支配であるからだ。
 自然のもつ精神エネルギー(氣)の環境に生きるべきである。機械物質文明は精神エネルギーを排除しているので、自我病を蔓延させている要因である。


追記2:不連続的切断に関してであるが、思うに、私が問題にしている自我病はとりわけ近代教育を受けた人間の陥る症状(広義の精神病)ではないだろうか。もっとも、連続的様態は自然状態であるが、同時に、差異共振の「光」の種子もあるだろう。つまり、精神の自然状態は、原始差異共振様態と連続態が併存しているのではないだろうか。
 しかし、近代教育を受けると、原始差異共振様態が否定されて、連続態が一般的になり、自我病を発症するのではないだろうか。
 結局、この場合、精神を不連続化させて、新たに差異共振精神を形成する必要があるだろう。これは、いわば、トランス・モダン的精神形成である。
 これは虚数(精神)濃度を高くするものではある。しかしながら、高濃度と低濃度には上述したように、質的差異がある。これをどう捉えるのか。
 どうも、閾値があるのではないだろうか。例えば、水の三態において、一気圧では、ゼロ℃で氷結し、百℃で気化する。この場合、ゼロと百が閾値である。
 虚数濃度の場合にはpH7(中性)が閾値と考えられないだろうか。それより高い濃度が精神的人間で、低い濃度が物質的人間である。
 というより、不連続化/差異共振化とは、最高虚数(精神)濃度ではないだろうか。
 そして、生成門氏のオイラーの公式複素数精神マップ(と呼ぶことができよう)で実数部ゼロのときが不連続化/差異共振化様態と言えるだろう。
 とまれ、不連続化/差異共振化は極限化であり、絶対化、超越化であると言えよう。それは、Kaisetsu氏の唱えるZ軸=超越軸の形成と通じるのではないだろうか。純光と純闇が即非的に共振する純粋様態である。超越光様態である。


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