超越的存在とプラトンの善の太陽:マニ教の光とmedia point twilight

超越的存在とプラトンの善の太陽:マニ教の光とmedia point twilight


テーマ:manichaeism: 哲学


オイラーの公式


−1=e^iπ


これをPS理論は


凹(−1)=e^iπ


とする。

 そして、凹(−1)は超越的存在である。私はこれに四大の火を当てた。
 思うに、プラトンの洞窟の外に存する太陽、善の太陽は、凹(−1)を指していると考えられる。
 ただし、どちらかいうと、第二象限的な太陽だと思う。しかしながら、洞窟の外部なので、第三象限性を確かにもっていると考えられる。
 思うに、凹(-1)の元太陽の発現様態が問題である。それは、凸iの光と凹iの闇の差異共振様態として、発現するのであり、二つの要素に分離するのである。
 だから、二つの太陽がある意味で生起すると言えよう。光の太陽と闇の太陽である。
 しかしながら、両者の関係は微妙である。なぜなら、前者は後者と交わり、後者は前者と交わると考えられるからである。相互浸透があるのである。つまり、光の太陽は闇の太陽を志向し、闇の太陽は光の太陽を志向すると考えられるからである。
 二重の太陽、三重の太陽がそこにはあると言えよう。そ三重の太陽はmedia point sunと言えるだろう。
 ここでD. H. Lawrenceのdark sun, dark Godを考えると、dark sunは闇の太陽を指していると見ていいだろう。そして、dark Godは凹(−1)である。あるいは、第三象限である。
 しかしながら、ロレンスは最晩年、太陽とともに始めよStart with the sunと唱えたのである。それ以前のロレンスはdark sunを説いていたのであり、これは何を意味するのか。
 これは、二重の太陽、ないし三重の太陽で説明できよう。光の太陽は闇の太陽や相互浸透を意味しているからである。
 また、ルドルフ・シュタイナーの説く物質的太陽と霊的太陽であるが、前者は光の太陽の物質的映像と見ていいだろうし、霊的太陽とはmedia point sunであり、さらに、第三象限へと連なる太陽であろう。
 いわゆる、精神・霊界spiritual worldとは、media pointの虚軸点MP1に既に存すると言えようし、狭義では凹i(−1)であろうし、広義では、media point の虚軸点MP1を含んだ第三象限であろう。
 次にマニ教の光について少し触れたい。この光は先に超越光であると述べた。ほぼmedia point lightと言っていいだろう。そう、media point twilightとも言えよう。正確に言えば、凹(−1)と結びついた第三象限を含む「光」である。
 さて、ここで問題が生じている。先にエーテル体とはmedia pointの差異共振によって形成されると述べたのであるが、MP1は超越光を意味するのであるから、エーテル体(氣)=超越光になってしまうのである。
 ここで先に図式を少し変容させて考えよう。先には次のように述べた。


光とエーテル体(氣)


「整理すると、自己・個とは凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)であり、アストラル体が凸i/凹i(凹i⇒凸i)であり、エーテル体が凸i共振凹i(MP1)であり、物質体が凸ということになる。」
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11096912752.html


自己・個凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)を


凸i/凹i(凹i⇒凸i)*凹i/凸i(凸i⇒凹i)⇒凸(+1)


と変換させる。
 思うに、この自己・個の差異共振が超越光を意味するのではないだろうか。正確に言えば、凸i/凹i(凹i⇒凸i)にとりわけ超越光が属するであろう。
 しかしながら、左辺全体に超越光が属すと言うべきだろう。
 結局、超越光は単純なMP1の差異共振ではなく、それは、自己・個的差異共振によって発生すると言うべきなのである。それでこそ、ウパニシャッド哲学の梵我一如『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)と一致しよう。つまり、梵が超越光ということであり、それが「我」=自己・個ということである。
 以上の考察(思考実験)で問題点がかなり整合化されたと言えよう。
 そう、シュタイナーがキリストとはアフラ・マズダのことであると述べていた。アフラ・マズダとはPS理論では凹(−1)と考えられる。ならば、キリストとは凹(−1)の超越的存在ということになる。ウパニシャッド哲学で言えば、汝とキリストは一致するということになるだろう。神人一致である。


追記:正しくは善の太陽ではなく、善のイデアの比喩としての洞窟外の太陽である。


http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/natuphy.html


自然哲学:その1



ガウス平面で表した人間認識の図》

original concept picture of kaisetsu
(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


参考:


汝はそれなり
(2006.09.26/00:04) CM:4 | TB:0

『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)という言葉があります。

これは、ウパニシャッドの宗教的・哲学的思想の中で、ウッダーラカ・アールニが語った有名な格言『我はそれなり、汝はそれなり、全てはそれなり』の一部で、この言葉は、ウパニシャッド哲学のエッセンスを一文に凝縮したものであると言われています。

では、『汝はそれなり』とは、いったい何を意味しているのでしょうか?

一般に「汝」=「アートマン」であり、「それ」=「ブラフマン」であると言われています。

アートマン(atman 真我)」とは、意識の最も深い内側にある個の根源で、個の中心にあり認識自体を司るもので、真我は「知るもの/知られるもの」の二元性を超越しているため、「真我」自体を認識の対象にすることはできません。つまり、知覚すること自体ができないのです(笑)。デカルトの非常に有名な言葉『我思う、故に我あり』(cogito, ergo sumコギト・エルゴ・スム)は、この掴み所のない「真我」の残した足跡を捉らまえて、間接的に存在性を表現したものなのですね。

また、「ブラフマンBrahman 梵天)」は、全存在世界の根源的リアリティ、つまり、宇宙の根源原理、宇宙の源のこと指しており、神聖な知性としても考えられています。

要するに、『汝はそれなり』の意味することは、究極的には個人の真我と宇宙原理は一致し、全く同じものであることを言っているのです。

このことを、『梵天一如』とも表現されます。

自分の心の中を深く深く入り込んでいくと、自己認識している核の部分にまで至るが、でもそれは、途轍もなく広大な全宇宙存在のソースでもあった。更に、先に先に進むと宇宙空間となり、最も遠い所、つまり、自分の周囲に行き着いてしまうというわけです。

画像

このことは、かなり前の記事「現実世界って? 」にも書いたのですが、自己と宇宙は、まるで「クラインの壷」状の構造になっているのですね。

では、これを確かめるにはどうしたらいいのでしょうか?

このことは、瞑想を通して体験するしかないのですが、ブラフマンを体験するには、「無私」の状態にまで達しないと体験できないと言われています。

瞑想する場合には、例えば、マントラを唱える場合でいうと、マントラを唱えていることを知覚できている状態ではダメなのです。自分がマントラ自体にまでならないと「無私」とはいえないのです。(参照:幸せ天使さんのブログ )

これって、ななかか難しいです。

http://aioi.blog6.fc2.com/?mode=m&no=186

煩悩くん フルスロットル



とうとうコルマンインデックスが終了した4 (11/30)


コルマンインデックスが指摘する思想的な変化とは、以下のような長期の傾向が10月28日のコルマンデックスの終了で次第に現れるとする予言である。

「人間の外部に存在し、人間を支配する超越的な存在としての神の概念から、一人一人が神や仏の一部であることを実感する方向へとシフトする。」

このような変化が本当に起こるとするなら、それは我々が世界を感じたり認識したりする方法が転換する、人間と世界の関係の変化が伴うはずである。いわゆるパラダイムシフトと言われる現象となって現れるはずだ。
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-229.html


ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだ