カント哲学の連続性と不連続性の未分化

カント哲学の連続性と不連続性の未分化


テーマ:manichaeism:


D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学
の論点から、カント哲学の本質的意義が明瞭になると考えられる。
 つまり、カント哲学はMP1(虚軸点)とMP2(実軸点)が未分化なのであり、それ故に、純粋理性のアンチノミー(背理、パラドックス)が生じるのである。
 しかし、カント哲学は凸iが優位であるため、あるいは、MP2(実軸点)が優位であるために、ロレンスとは異なり、第二象限の理論になっているのである。
 ロレンス文哲学の場合は、本質的には第三象限に根源をもっていると考えられるのである。
 思うに、ロレンス文哲学はマニ教的と言えるだろう。諸宗教の普遍化への志向が見られるからである。



D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学


テーマ:literature


D. H. ロレンス文学哲学(略して、文哲学)のいちばんの問題点は、先に述べたように、母権と父権の混淆である。未分化とも言えるが、それより、連続性と不連続性の混淆と言うべきである。
 直観で言えば、ロレンスは凸iへの傾斜と凹iへの傾斜が揺らいでいるのである。だから、primitive media point dynamicsがロレンス文哲学力学と言えよう。
 PS理論は、凸iと凹iの闘争、衝突、拮抗、対立、矛盾等のダイナミクスを説いているとは言え、ロレンス文哲学力学の様態とは異なる。
 これは芸術と哲学・理論との違いに拠るとも言えよう。
 しかしながら、やはり、違いは不連続性の様態にあると思う。即ち、ロレンス文哲学の場合、凸i主導の連続性へ傾斜したり、凹i主導の不連続性へ傾斜したりする、極端な揺らぎがあるのである。
 それに対して、PS理論は凸i主導性は同一性主義として、批判して、基本的には凹iを基礎とするmedia pointの様態を肯定するのである。
 つまり、PS理論は脱連続性の理論であり、不連続性を基礎とする理論であるということになる。
 これで、ロレンス文哲学とPS理論の違いは明瞭である。もっとも、ロレンスはPS理論の一つの先駆と考えられるので、その点で評価すべきであるが。
 ロレンス文哲学の問題は、凸iの連続性へ傾斜したときであるが、いったい、それは何を意味するのか。
 端的に、反動性への傾斜を意味するだろう。主体がなんらかの攻撃を受けて、主体的精神が反動的様態になったとき、凸iの連続性への傾斜が生じると思われる。
 外部からの強い攻撃にあったとき、精神は反動化しやすいのである。
 ロレンスにおいても、このような事態が生起して、凸iの連続性へと傾斜したと思われるのである。
 具体的には、妻フリーダとの関係が否定的になったことが根因のように思えるのではあるが、実際は社会的事件等も大きく関わっているのである。そう、重層・複合的反動化があると言える。



コスモス:宇宙と精神:マクロコスモスとミクロコスモスの照応とフラクタル


テーマ:manichaeism: 哲学


この問題は長年検討中であるが、未だに導きの糸が見出せない。
 直観では、MP1(虚軸点)にコスモスの原動力が存するのであり、それがMP2(実軸点)へと展開して、宇宙現象となるのである。
 問題はコスモスの原動力の力学なのである。私は占星術、古代宇宙論のマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙:人体)の照応を正しいと直観しているのであり、その力学、コスモス力学を打ち立てたいのである。
 そう、マクロコスモスとミクロコスモスの照応とは、結局、フラクタルで説明できよう。 
 しかし、問題はフラクタルの質的力学なのである。
 正五角形はVector Modeで説明できる。これは自然事象である。黄金比の事象である。
 思うに、ここから帰納させれば、自然事象には、比率が支配していると言えるだろう。プラトンの比例がそのような視点である。
 とまれ、比率が西洋文明の理性になったのは哲学的常識である。(理性の問題はそれが量化されてしまったことにあると言えよう。つまり、科学、物質科学、近代科学の問題である。)
 ここで簡単な作業仮説を立てよう。すなわち、MP1(虚軸点)において、実数による等分割が為されるというものである。
 ということは、MP1において、つまり、一(いつ)において、等分割原理が支配するということになる。
 2等分割、3等分割、4等分割、5等分割、6等分割、7等分割、・・・n等分割である。
 ということは、端的に、凹(−1)は虚数原理において、実数分割原理を内在、内包、包摂しているということではないだろうか。いわば、虚数的実数等分割原理である。あるいは、簡単に虚軸的等分割原理である。
 そう、直観では、凹(−1)は卵である。これが、等分割するのである。
 さらに作業仮説を行なうと、等分割原理において、質的差異が生じるということである。
 これは、陰陽原理から説明できるだろう。明らかに、2等分割において、陰と陽は質的差異をもつのであるから。その他の等分割においても同様と考えられるが、ただし、陰陽の差異的比率が異なると考えられよう。
 この陰陽的差異比率原理については、検討課題としよう。しかし、陰陽的比率ということで、既に、予測、予見はできる。



音楽と超越性


テーマ:music


思えば、音楽を視覚の事象のように論じてきたが、音楽を音、聴覚の事象として捉える必要があるので、簡単にコメントしたい。
 結局、感覚とは何か。知覚とは何か。これが問題である。
 これまでの考察から、感覚器官とは超越性によって、あるいは、虚軸性によって形成された物質的器官ということになる。
 しかしながら、同時に、そこにはmedia pointが存するのであり、media pointの「感覚」によって、本来の超越性を直覚すると考えられる。
 では、すぐれた音楽の事象とはどういうことなのか考察しよう。
 精神性の感覚的表現がすぐれた音楽である。(もっとも、これは音楽に限定されないが。)
 結局、感覚には先に考察したように精神性が存するのである。
 しかしながら、感覚器官は同時に物質的器官である。この点で、感覚を物質的感覚として限定しまうことになる。
 感覚を物質的感覚として捉えるのは、明らかに、物質科学(近代科学)が原因である。何故なら、感覚事象を物質事象として把捉するからである。
 そう、確かに感覚は物質的感覚ではあるが、それだけではない。
 これは先に述べたように、実軸点(MP2)における事象・事態である。ここでは、精神性があると同時にないのであり、物質的感覚、同一性感覚が生起するのである。
 物質科学(近代科学)はこの実軸点(MP2)における物質性を特化した科学と言えるのである。
 本題に戻ると、音楽は実軸点(MP2)における聴覚事象であり、そこに反映される精神性を表現していると言えよう。
 では、音、音響、音波とはどうして、精神性を表現できるのか考えてみよう。
 結局、空気自体が単に物質ではないと言えよう。そこには、差異共振エネルギー、つまり、氣が存するのである。その氣を活性化するのが音楽であり、氣的聴覚的現象が音楽であると言えよう。
 だから、単に、音、音響、音波ではないのである。氣的サウンドなのである。