「わたし」とは自我なのか自己なのか:個と自我と自己

「わたし」とは自我なのか自己なのか:個と自我と自己


私はシュタイナーの本の翻訳者がichを自我と訳しているのは大誤訳であり、自己とすべきであると何度も唱えている。これは、デカルトに始まる近代哲学の大問題であるから、ここで、繰り返しになるのが、論述したい。
父権的民族は凸i、iが優位であり、母権的民族は凹i、−iが優位であると考えられる。
そして、近代になって凸i、iが極端化して、凹i、−iを否定するようになったと考えられる。それが、コギト・エルゴ・スムの意味するものと考えられる。
そのときの「わたし」は確かに、自我と訳していいものである。その意味ならば、シュタイナーのichを自我と訳すことは正しいことになる。
では何故、私は自己という訳語にこだわるのだろうか。それは、PS理論の陰陽性からの要請からである。即ち、自己は陰陽的存在であり、単に自我的存在だけではないからである。言い換えると、「わたし」は自我と他者の極性から成り立つのであり、自我だけを切り離すのは間違いと考えられるからである。
とまれ、近代哲学において凸i、iの優位は決定的であり、そのために、他者凹i、−iは劣位なのである。この場合、不連続的差異論で述べたように、連続的同一性が中心化するのである。そう、連続性の支配があるのである。
しかるに、凸i、iの優位性から凹i、−iを不連続化したとき、自己において、質的転換(変容)が生起するのである。思うに、それを自己のmedia point化を呼べるだろう。
media point Iの生起である。そのとき、自己は極性的自己(個)となっている。他者を考慮した凸i、iにもなるし、凸i、iを制御した凹i、−iに転ずることもできる。
先に、個=アートマンや「空」=media pointを述べたが、今や正確に事態を認識することができる。media point I(略して、mpI、又はmepoI)こそが、個=アートマンであり、その様態が「空」であるということである。すなわち、


media point I=陰陽(極性)的自己=個=アートマン(=ブラフマン)=「空」


である。
そして、瞑想等を介して、凹i、−iを主導化して、人間認識図の第三象限へと参入するのである。それを神界(神海)、霊界(霊海)、コスモス界(コスモス海)と呼ぶことができよう。そう、冥界(冥海)である。
最後に、シュタイナーの自己論に関して付加すると、既述したが、自我とアストラル体は極性化して考えるべきということである。つまり、それぞれ、凸i、iと凹i、−iと見るべきであるということである。


参考:自己認識方程式と人間認識図


自己認識方程式


i*(−i)⇒+1


or


凸i*凹i⇒凸


ただし、*は実軸的には積を意味する。


人間認識図