自我と個について:「わたし」とは何か:凹⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸

自我と個について:「わたし」とは何か:凹⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸


テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)


自我は凸i、個は凹iと言えるのではないか。とまれ、今は、自我とは何か、個とは何かを考えたい。
 私が考えるとは、直感的に考える、つまり、内省、省察するということである。(思うに、思考と内省・省察は異なるのではないだろうか。前者は頭で考えるのであり、後者は、内面的に考えるのであるから。だから、いわば、外考と内考があると言うことができる。近代主義は当然、前者に傾斜しているのである。哲学は後者である。)
 この問題で私が参照するのは、人智学のルドルフ・シュタイナーである。彼は、人間における自我を重視している。もっとも、彼の自我とはich(「わたし」)のことであるが。
 ここでは有り体に考えよう。いったい、自我とは何か。確かに、外界への視覚に留意し、頭で考える存在である。
 これはデカルト的自我と言っていいだろう。コギト・エルゴ・スム。
 物質現象世界を生きる「身体」としては、そのような視点になる。自我的視点である。
 しかしながら、自我と「わたし」は同じであろうか。これが大問題である。
 自我とは、物質的現象界を生きる上で、必要な「端末」である。
 そう、物質世界において、自我が主導化する。
 この自我とは物質的な「わたし」と言えよう。だから、物質的でない「わたし」が存するのである。それは当然であるが。
 端的に、精神的な「わたし」が存するのである。
 では、精神的な「わたし」と個とはどう関係するのかが、問題である。
 これまで、私は個とは凹iであると述べてきた。又、それは、同時に他者であると述べてきた。
 だから、自我と個とは対立・矛盾するのである。否、絶対的矛盾・対立である。つまり、やはり、自我は凸iであり、個は凹iであるということになる。
 ならば、「わたし」とは何か、という問題が生じる。
 結局、「わたし」とは、両極的、対極的、双極的観念ではないだろうか。
 ここには、三一性があると言えよう。自我、個、「わたし」である。しかしながら、「わたし」は曖昧な観念である。流動的である。何故なら、常に、自我極に向いたり、個極に向いたり、常時変動しているからである。
 ここで、都合がいいので、ユング心理学の個性化について考えよう。
 ユングは自我と魂(アニマ)との統合として、自己形成=個性化を説いていた。
 だから、私の論理の文脈では、魂とは個凹iになるだろう。
 では、ユングの個性化とは何か。それは、以前述べたが、自我と魂(個)との連続的統合化であると思う。それは、混乱していると言えよう。錯誤である。
 というのは、ユングは、自我と魂(個)とが不連続であることを考えずに、その連続的統一・結合化を個性化と考えているからである。
 PS理論から言えば、自我と個(ないしは魂)は不連続であり、連続的統一化が不可能である。
 PS理論では、自我凸iと個凹iとは、差異共立且つ差異共振するのであり、常に、自我凸i・即非*・個凹iという常時変動生成状態をもつと考えられる。
 とまれ、それが「わたし」の実態であるが、いったい、主導性は何であるのかが重大な問題である。
 自我凸iが主導的なのか、個凹iがそうなのか。
 PS理論から言えば、両者が主導的である。つまり、どちらも主導的ではないと言えよう。
 ただし、傾斜の問題がある。自我凸iに傾斜したときは、差異共振は第二象限に属するし、個凹iに傾斜したときは、それは第三象限に属すると考えられる。
 そういうように考えると、両者、平等、対等、均等である。果たして、そうなのか。自我凸iと個凹iは対等なのか。
 ここでは、直感で述べよう。対等ではない。主導性は後者にあると。
 根源は個凹iに存すると考えられるのである。
 自我凸iは、個凹iのエネルギーを受けて、成立しているように感じられるのである。
 ならば、不均衡がそこにあるのである。つまり、自我凸iと個凹iとの不均衡である。
 これはどういうことなのか。つまり、本来、個凹iが基礎であり、自我凸iは二義的ではないのかということである。
 ならば、個と差異共振とはどういう関係にあるのかが問題である。
 ここで、どうも袋小路に入ってしまったようである。この点については、以前、考えたことがあるので、それを利用してみよう。
 以前の考えとは、⇒凸(+1)においては、凸iが主導的であり、凹⇒凸i*凹iにおいては、凹iが主導的であるというものである。
 これは言い換えると、前者は父権的であり、後者は母権的であるということと考えられる。
 これが、事象の力学(秘密)なのであろうか。つまり、物質化のためには、凸iが主導的であり、脱物質化のためには、凹iが主導的であるということなのか。
 そうならば、端的に、事象において、不均衡、非対称が本質であるということになる。
 これも以前述べたことかもしれないが、超越的存在の凹が分化(自己分割)して、凹i*凸iを産出する。このとき、凹は直接的には、凹iに作用しているのではないだろうか。それから、主導性が凸iへと移り、次に、物質化するということになるだろう。
 言い換えると、最初は、第三象限(精神世界:光の王国)が成立し、次に、第一象限(物質世界:闇の世界)が形成するということになる。
 多くの神話で説かれる原初の混沌とは、第三象限を指しているのではないだろうか。あるいは、media pointがそうかもしれない。(これは課題とする。)そして、天地開闢ないしは天地創造は第一象限の発生を意味するのではないだろうか。
 思うに、根源の「闇」とは第三象限だと思う。それが、「闇」なのは現象世界の「光」から見てのことである。そして、混沌とはやはり、media pointだと思う。それは、「闇」と「光」の中間界であり、D. H. ロレンスのいう薄明twilightの世界(金星Venusで象徴される)である。
ということで、作業仮説的に、原初においては、凹iが主導的であり、現象発現においては凸iが主導的になるとしたい。
 言い換えると、母権が原初にあり、それから父権が生起するということであり、それは、神話学的説明にそぐうものである。
 つまり、多神教が根源にあり、その後、一神教が発生するという力学、宗教・神話力学があるということである。
 ここで、今日、現代の時代のことを考えると、今や、凸i=父権の支配は終わり、新たな凹i=母権主導になりつつあると考えられるのである。
 この力学はどう説明できるだろうか。
 思うに、新たなエポックが始まったと考えられる。これまでの支配的であった西洋文明のエポックの発動のエネルギーが枯渇して、新しいエネルギーが発動していると思われるのである。
 新たな第三象限の発動・起動・駆動である。
 では、そうならば、再び、母権から父権へと進展するのであろうか。否、そうではないだろう。これは螺旋的回帰であり、進展・進化と考えられる。
 再び、父権主義にはならないだろう。父権主義を超克した新母権主義、新母権的統合主義となろう。
 何故なら、今や、父権主義の力学が解明されて、それを克服する知恵があるからである。つまり、新たに、父権主義へ向おうとすると、母権、凹iの抑止がはたらいて、それは制御されると考えられるからである。
 今はここで留めたい。