古代日本は古代ギリシアに酷似する:光と闇の陰陽文化:可視的古代ギ

古代日本は古代ギリシアに酷似する:光と闇の陰陽文化:可視的古代ギリシアと不可視的古代日本


テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能


天孫降臨の父権的民族は、古代ギリシアの父権的民族に類似する。それは、「アポロ」的民族である。直観では、ゾロアスター教に似た文化をもつ。視覚・美術的民族である。外的志向性をもつ。
 それに対して、土着的先住民がいた。それが、国つ神の民族(縄文・弥生的民族:アジア南方と北方の融合的民族:海洋性と山岳性の融合した民族)であり、古代ギリシアでは、母権的な農耕民族、且つ、東地中海の海洋的民族、即ち、「ディオニュソス」的な民族である。これは聴覚・音楽的民族である。内的志向性をもつ。
 前者が「光」=「火」の民族であり、後者が「闇」=「水」の民族である。(因みに、「天」(アマ)は「雨」(アメ)である。)
 そして、古代日本、古代ギリシアにおいて、両者が出会い(衝突して)、差異共立・共振して、新しい民族文化が生まれたのである。
 それは、「陰陽」文化と広義に言えるだろう。それは、知的感性、感性的知性の文化である。神話・芸術があり、また、哲学・科学があるのである。
 古代ギリシア文化については、今更言うまでもないが、古代日本に関して、解明する必要があろう。
 直観では、古代ギリシアよりも母権文化に傾斜した文化である。それは、神道に表れていると思う。それは、不可視の世界を直観する精神の誕生だと思う。端的に、神道文化が生まれたのだと思う。古代ギリシア文化は父権的傾斜があるので、美術文化を生み出した。
 しかし、日本は目に見えない世界の精神文化、神道多神教文化を生み出したのではないだろうか。
 古代ギリシアは外界的造形に向かったが、古代日本は内界的直観に向かったのではないだろうか。
 それは、人間認識図では、第三象限文化である。とまれ、古代日本は二重視覚をもったと思う。肉眼と心眼である。そして、心眼が根本であったと考えられる。
 この心眼を映す鏡が神鏡、八咫鏡ではなかっただろうか。


追記:飛鳥時代仏教文化を受け入れたのは、母体の神道文化である。神道と仏教は見事に調和したのである。


追記2:古代ギリシア人が外界的造形に向かったの言うのは、不正確である。内界的精神の造形を行なったの言うべきであろう。外界的造形へ向かったのは古代ローマ人である。
 古代ギリシアの「アポロ」的精神とは内界的な美術的精神と見なくてはならない。



ニニギ
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表 ・話 ・編 ・歴

ニニギ(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎ)は、日本神話 に登場する神 である。
神話における記述 [編集 ]

古事記 』では天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、天邇岐志、国邇岐志、天日高日子、『日本書紀 』では天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊、天津日高彦瓊瓊杵尊、彦火瓊瓊杵、火瓊瓊杵などと表記され、一般には瓊瓊杵尊瓊々杵尊邇邇芸命(ににぎのみこと)と書かれる。

天照大神 の子である天忍穂耳尊 と、高皇産霊尊 の娘である栲幡千千姫命萬幡豊秋津師比売命)の子。兄に天火明命 (あめのほあかり)がいる。『日本書紀』の一書では天火明命の子とする。

天照大神の命により、葦原中国 を統治するため高天原 から地上に降りたとされる。これを(天孫降臨 )と呼ぶ。『古事記』では、この降臨の地については「竺紫の日向の高穂の久士布流多気に天降りまさしめき」と記述している。『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している。

この降臨の経路の解釈ついては、日向国高千穂峰 に降り吾田国(現在の南さつま市 )の長屋の笠狭碕に到達したとする説が有力である。

一方、行政上、日向国が設置されたのは7世紀であり、それ以前の時代には日向国地域は熊曽国 に含まれていたとして、『古事記』の「竺紫」=「筑紫」、日本書紀の「筑紫」から、降臨地は「筑紫国 の日向」であって後世の「日向国」ではないと解釈する異説がある。 降臨した時期について、『日本書紀』巻第三(神武紀)は、神武天皇即位年より179万2470余年前のこととしている。

そこで大山祇神 の娘である木花之開耶姫 を娶り、火照命 (海幸)・火闌降命 ・彦火火出見尊 (山幸)を生んだ。彦火火出見尊の孫が神武天皇 である。亡くなった後は「可愛の山陵」に葬られた。


解説 [編集 ]

名前の「アメニギシクニニギシ」(天にぎし国にぎし)は「天地が豊かに賑う」の意。「アマツヒコ」(天津日高)は天津神 のことで、「ヒコ」(日子)は男性のこと。「ホノニニギ」は稲穂が豊かに実ることの意味である。「ニニギ」は「ニギニギしい」の意で、「にぎやか」と同源語である。神話上ニニギの一族とされている上述の天忍穂耳尊火照命・火闌降命・彦火火出見尊とは名前に稲穂の「ホ」がある点で共通している。

農業の神として信仰されており、霧島神宮 (鹿児島県 霧島市 )、高千穂神社 (宮崎県 西臼杵郡 高千穂町 )、新田神社 (鹿児島県 薩摩川内市 )、築土神社 (東京都 千代田区 )、射水神社富山県 高岡市 )などに祀られている。

埋葬地である「筑紫の日向の可愛の山陵 」の伝承地は南九州各地にある。明治政府はその中から、旧薩摩藩 の学者の意見を参考にして、明治7年に鹿児島県薩摩川内市の新田神社が可愛山陵であると治定した(他の日向三代 の神陵も鹿児島県内に治定している)。

しかし、後の国学者宮内庁の調査により、明治29年、宮崎県東臼杵郡 北川町 の可愛岳(えのだけ)山麓の古墳を「可愛山陵伝承地」、宮崎県西都市 西都原古墳群 にある男狭穂塚 を「可愛山陵参考地」と定めた。また、可愛岳そのものが神陵であるという伝承もある。


関連項目 [編集 ]

* 日本の神の一覧


執筆の途中です この「ニニギ」は神道 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (ポータル 神道 /ウィキプロジェクト 神道 )。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%8B%E3%82%AE 」より作成
カテゴリ : 日本の神 | 天津神 | 農耕神



古代人の息吹 今に


2010年11月27日
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描かれた絵の種類を記した壁画の加工写真=水戸市教委提供
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石室の奥壁には5種類8個の武器と武具の壁画が確認できる=水戸市元吉田町の吉田古墳、目黒隆行撮影
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2006年の発掘調査の様子。中央右よりに周溝の角が確認され、多角形古墳の一端が見える=水戸市教委提供

 古代人の息吹が常陸の地でよみがえった。ダイナミックな線刻壁画と多角形とみられる姿を現した吉田古墳。深まる謎は、史家の想像力をかき立てる。(吉村成夫)

<厳粛な雰囲気 荘厳な線刻壁画>

 水戸駅から南に1・5キロ。市立千波中近くの静かな住宅街に、吉田古墳はある。

 38年ぶりに開いた横穴式石室に入った。埋めていた砂が取り除かれたのは2日前だ。

 奥行き約7・5メートル。江戸期に土砂を再利用された影響か、手前半分はなくなり、入り口の羨道(せん・どう)は石が二つ残るだけ。亡きがらを納めた玄室の側壁も一部傾いている。

 玄室は、高さ・幅とも1・8メートル程度。灰褐色の壁の中は薄暗くひんやりとして、厳粛な雰囲気だ。左右に、現代人による名字などの落書きが幾十もある。38年前までは埋められておらず、自由に出入りできたらしい。

 奥の壁には、線刻で描かれた装飾画が一面に広がる。上下左右とも1・2メートルほどの範囲に武器や武具の絵が並ぶ。大刀(た・ち)、刀子(とう・す)(ナイフ)、靱(ゆき)(弓矢を入れる道具)が克明に彫られ、鉾(ほこ)と鞆(とも)(弓矢を射る手に装着する)と思われる模様が間を飾る。上下左右とも1・2メートルほどか。実に規則的な配置で、荘厳さを感じた。線は数ミリ程度で細く浅い。鉄製の刀子を使ったという見方が有力だ。

 現在、吉田古墳の外見は小さな塚のようだが、実際には十数倍の範囲に八角形の可能性の高い多角形墳が広がっていた。墳丘の周囲の堀(周溝)が発掘され、その証拠になったが、現在は埋め戻されて畑などになっている。

<深まる謎 ふくらむ夢>

 新たな発見により新たな課題が生まれ、意見の相違が出てくる。本当のおもしろさはこれからだともいえる。

●何角形なのか

 八角形墳は全国の古墳16万基のうち、可能性のあるものを含め約20例しかない。畿内では正八角形で、角が敷き詰めた張り石で確認されるものが多く、天皇陵を特徴づけるものとされる。

 吉田古墳について市教委は主に南側の発掘で、周溝から4角を確認し、全体をややゆがんだ八角形と推定した。今後北側を調査すれば「断定できる可能性がある」とする。

 古墳時代に詳しい大塚初重・明治大名誉教授(考古学)は、最低でも六角形で、八角形の可能性は十分にあるとみる。「多角形に墳丘を整えた被葬者の意志が感じられる。在地の有力者が畿内の新しい世界観を取り入れていたと考えれば、当時の地方に中央の文化がいち早く伝わり、決して遅れてはいなかったといえる」と語った。

 古墳の構造に詳しい土生田純之・専修大教授(考古学)は慎重な立場だ。吉田古墳は角が石ではなく溝で確認されている点や、未調査の部分で必ず角が出るとは限らないなど様々な可能性をあげ、「八角形との断定は危険。多角形も断定するのに十分ではないだろう」と指摘。時期については、「近くの虎塚古墳の流れから7世紀第2四半期と思われ、律令体制の前なので、八角形であっても中央とあつれきが出る時期ではない」とも述べた。

●被葬者はだれか

 墓碑銘を持たない日本の墳墓は、大半で被葬者がわかっていない。考古学でこの問題は「一番意地悪な質問」ともいわれる。

 市教委は、線刻壁画や古墳の形状が水戸周辺では確認されていないものなので系譜をたどれず、「特定の地元の豪族と結びつけることは今はできていないが、情報を持っている人間だろう」とする。

 夢をみようと、専門家にあえて自説をうかがった。川崎純徳・県考古学協会会長は「論議はわかれるが、私は国造(くにの・みやつこ)の一族と思う。壁画は九州に多く見られ、同時代のものが茨城にもあった。九州系統の豪族が中央政府の命令でこの地にきた。その一族ではないだろうか」と述べた。
 大塚名誉教授は「天皇と同様の八角形にこだわる地元の有力な豪族か、中央政府から派遣された高級行政官や軍人などが考えられる」と話す。
http://mytown.asahi.com/ibaraki/news.php?k_id=08000001011270002