第二稿:日本伝統文化は個-共同主義である:近代化は集合化:母権*

以下は、先の考察を校正し、又、追記を付加したものである。Kaisetsu氏の女媧論が実に意義深い。
 やはり、母権・大女神の女媧が始原であり、その後、伏義が生起して、陰陽化したと考えられる。


初めに女神ありき!


日本伝統文化は個-共同主義である:近代化は集合主義になった:母権*父権⇒差異共立・共振/陰陽文化


テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明


日本伝統文化は個主義であり、且つ、共同主義である。
 どこかで、これが失われたのである。
 私の直観では、国学の排外主義が胡散臭いのである。何度も既述したが、本居宣長が胡散臭い。大和心と漢心と分けるのが、そもそも、「漢心」である。国学に私は近代主義の基盤を見るのである。
 それに対して、坂本龍馬らの開国主義はまったく異質なものであり、本来の東洋主義に根差す開国主義である。明治維新以後の脱亜入欧とはまったく異質な、正反対の視点である。
 これまでの視点から言えば、脱亜入欧路線は父権主義であり、坂本龍馬らの路線は母権主義である。
 母権主義が近代日本において、その基礎となりつつも、敗れたものである。
 そう見ると、やはり、日本国は、古代ギリシアのように、母権文化が原基にあり、その上に強力な父権文化が侵入した歴史をもっているように思われる。
 即ち、父権的民族が母権的原日本に侵入して、日本国が生まれたと思う。
 思うに、天皇制はその所産である。しかし、ギリシア神話におけるゼウスが両義的であり、母権的な要素を強くもっていることを考えると、天皇とは単に父権的なものだけでなく、母権的なものと考えられる。つまり、天皇イエス・キリストに類似しているのである。
 つまり、一方では父権的であり、他方では母権的であるということである。
 しかし、近代において、天皇制は父権的な制度・機関になったが、母権的視点から言えば、天皇とは女神なのである。つまり、天照大神である。大女神としての天皇である。
 天皇制を批判する人間は多いが、天皇を大女神と見れば、日本の再生に大いに寄与すると思える。
 そう、神話学的に言えば、女神(大女神)の子としての天皇である。

途中。


追記:武士であるが、私はこれも母権文化が母体であると推測している。


追記2:先に言及したが、その後、いくぶん翻した視点であるが、母体の母権制の社会に、父権的民族が侵入したとき、母権でもない、父権でもない、即非的文化が生まれると述べた点であるが、しかし、この視点は本稿の論点から見ると、不十分である。
 つまり、原基として、母権文化があることを認める必要があるのである。これが大前提である。
 そして、この基礎の母権文化が父権文化と衝突することで、新たに変容したのではないかと考えられるのである。これを父権的変容と呼んでいいのかわからない。
 父権文化は一言で言えば、知性の文化である。言語、文物、物質的経済の文化である。また、政治権力の文化である。
 ここでも、古代ギリシアに範をとると、口承文化が文字文化になったと考えられる。例えば、ホメーロスは吟唱詩人であったが、その口承詩が叙事詩となったのである。
 思うに、母権的口承の秘教(密教)文化があったのであるが、支配的な父権文化のために、それが、文字化、文字言語化されるようになったと思われる。例えば、エレウシスの秘儀が、プラトン哲学に鮮やかに反照されていると考えられるのである。
 これは、文字言語的一般化・普遍化と言えよう。それは、同一性化・ロゴス化でもあるが、ベースは差異である。とまれ、父権化を暫定的に、文字情報化(ロゴス化)と呼んでおこう。
 すると、日本においても、母権文化の文字情報化(ロゴス化)が為されたと考えられる。それが、端的に、記紀である。そして、本題においては、天皇制である。
 結局、天皇制とは母権文化の、広義の文字情報化(ロゴス化)であると考えられる。
 とまれ、父権化によって、母権文化は知性化されたと考えられるのである。
 ここで、思考実験的に、私論・見解を変えることになるが(これまで、私は母権文化は凸i*凹iの均衡の取れた文化を捉えていたのである)、母権文化を凸i*凹iにおいて、凹iが優位の文化と考えると、それは、本来、凹i⇒-1、即ち、人間認識図の第三象限の文化(神秘的文化:秘儀・密儀文化:シャーマニズムはこれに入るだろう)をもっていたと考えられる。
 この様態に、父権文化の優位の凸iが入ると、実に、凹iと凸iの均衡が形成されることになるだろう。つまり、凹i優位の母権文化に凸i優位の父権文化が参入することによって、凸i*凹iの差異共立・共振の文化が生まれたのではないだろうか。それは、端的に陰陽文化である。(追記:だから、自己認識方程式は凹i*凸i⇒+1と変換されるべきである。)
 もっとも、以後、父権文化が支配・主導的になっていくので、この均衡が破壊されて、父権的同一性・物質・権力文化が形成されていったということではないだろうか。
 とまれ、結局、母権文化への父権文化の侵入・参入は、差異共立・共振文化、陰陽文化が生んだのではないだろうか。
 そして、その母体は母権制である。この点はいくら強調してもし過ぎることはないだろう。


追記3:以下、Kaisetsu氏の「女娲」論はきわめて興味・意義深い。以下の「女娲」像は正に、エジプト神話のイシス他のオリエントの女神を想起させる。
 女神のシンボルは♀(ヴィーナス、金星でもある)であるが、これは、エジプト神話のアンクに似ているのである。○が太陽であり、+が地球である。そして、この太陽が女神の子(天皇)なのである。また、ケルト十字は、+と○を重ねたものである。


参照:

* 三輪山も「御娲山 Mi Wa San」である。
* 倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。


倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。



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深圳雕塑:女娲补天。



倭wa人の本来の漢字は「娲wa人」であり、天孫である意味である。

 倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。

 女娲こそ、最も古いトーテムであり、「女娲が天を紡いだ。」「女娲が土で人間を創造した。」

 中国の中原を最初に支配した文明は、「娲人」である。

ここで、「女偏」が重要な意義を持っている。

 女性が「天地創造」の「母体」である。

 女偏を「姓」に持つ氏族が、天孫の末裔である。

 また、倭が蛇をトーテムとし、漢委奴国王印が蛇を印の装飾に用いていることも、本来、wa が「女娲」である証拠である。

 海舌



女娲(拼音:nǚ wā),中华上古之神,人首蛇身,为伏羲之妹,风姓。起初以泥土造人,创造人类社会并建立婚姻制度;而后世间天塌地陷,于是熔彩石以补天,斩龟足以撑天。


女媧は古代中国神話に登場する女神。三皇の一人に挙げる説もある。姿は蛇身人首と描写される。伏羲とは兄妹または夫婦とされている。


女媧は中国少数民族の苗族が信奉した神

http://blog.kaisetsu.org/?eid=812179

『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


参考:
ミャオ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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ミャオ族 / モン族
Hmong women at Coc Ly market, Sapa, Vietnam.jpg
伝統的衣装を着た花モン族。ベトナム 、サパ の市場にて。
総人口

400 - 500 万
居住地域
中華人民共和国の旗 中国 300 万
ベトナムの旗 ベトナム 790,000(1999年)
ラオスの旗 ラオス 450,000(2005年)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ 170,000(2000年)
タイ王国の旗 タイ 150,000(2002年)
フランスの旗 フランス 15,000
フランス領ギアナの旗 フランス領ギアナ 1,500
言語
ミャオ語
宗教
シャーマニズム 、仏教 、キリスト教

ミャオ族(ミャオぞく、苗族(びょうぞく))は中国 などに住む少数民族 である。モン族(ベトナム語 : H'Mông)ともいう。中国では貴州省 に最も多く、他に湖南省雲南省四川省広西チワン族自治区湖北省海南省 にも住み、タイ 、ミャンマーラオスベトナム などにも住む。歴史上移住を繰り返した民族である。


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歴史 [編集 ]
伝説 [編集 ]

中国の伝説では紀元前26世紀 頃、漢民族 の原型である華夏民族の君主・黄帝 が蚩尤 の民族の討伐作戦を行い、涿鹿(たくろく、河北省 と遼寧省 の省境付近)で破ったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏は地理の悪条件にもかかわらずコンパスを用い正確に蚩尤民族を破った。敗れた蚩尤民族はミャオ族とリー族 に分裂した。ミャオ族はこの後、南東方向に移動した。ミャオ族は漢民族 からは「蛮」と見なされ差別されたが、一部は周 王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚 や呉 の建国に関わった可能性がある。中国の学会では楚は異民族の国とされているが、現代ミャオ族と、先史時代の伝説中の三苗や、楚や呉を構成した民族との関連は今のところ定説はない。現代のミャオ族と繋がるのは、漢代の長沙・武陵蛮以降と見られている。
揚子江定住 [編集 ]

漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのは先秦 時代である。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江 流域に住んでいたが、漢人に攻撃され南下した。六朝 時代、揚子江南部を支配する南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、ミャオ族を歓迎しなかったが、五胡 による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝流入し一部は漢人と同化した。
西南中国へ移住 [編集 ]

唐 王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南など西南中国へ移動した。その後ミャオ族が雲南南詔 を建国したとする説もある。いずれにせよ、ミャオ族も他の少数民族同様に南詔で暮らしていたものだろう。[1]

ミャオ族が最も多く住む貴州・雲南一帯は13世紀 の元 王朝によって中国の版図に入った。

一方、中国南方各地で武装蜂起が起こっていた元 末の1357年 、楊完者 (ヤン・オルジョイ)率いるミャオ族の軍団が元朝の公認を受けて、徽州 にいる朱元璋 の軍を攻撃するも撃退された。その後も各地で暴れまわり、楊完者は付近の張士誠 に滅ぼされた。残ったミャオ族は朱元璋に降り、家臣訒愈 の軍などに入れられたが、その後も反逆が相次いだ。

明 代、貴州・雲南一帯に移住漢族が増えると土着ミャオ族との摩擦がおこり、大小100回を越すミャオ族反乱が起こった。なかでも、1448年 に発生した反乱は大規模で、明は20万の大軍を動員して1451年 にようやく鎮圧したともいう。この他、1457年 - 1459年 、1538年 - 1551年 にも大きな反乱が発生した。明の少数民族政策は少数民族首長の世襲支配権を認める土司 政策というものだったが、清 代にはミャオ族地区への漢族移住がさらに増え、中央が地方官を任命する直接支配すなわち改土帰流 政策(土司=少数民族首長支配を改め、流官=中央任命の地方官支配に帰すこと)が進められた。同化政策に抵抗する苗族は三次(1735年 - 1738年 、1795年 - 1806年 、1854年 - 1873年 )にわたる反乱を起こした。特に張秀眉 が指導した最後の反乱は大規模で、ミャオ族人口の三分の一だけが生き残ったともいう。
中国国内のミャオ族 [編集 ]

中国国内のミャオ族(苗族)は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション(Qo xiong)、貴州省東南部のムー(Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン(Hmong)である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ(Ghab nao)である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた。[2] 民族識別は1953年に始まり、54年に38の少数民族を確定し、65年に15、1982年に2つの少数民族が加わり、現在の中国は55の少数民族と圧倒的多数の漢族からなる総計56の多民族国家であるとされている。民族識別は、スターリンが提唱した言語、地域、経済生活、文化に現われる心理素質の4つの共通性が基準とされたが、問題点も多い。中国における「民族」概念は政治性を帯びており「創られた民族」の性格が強い。苗族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれ、分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けるか交錯雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオスベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。

中国国内の苗族について考える場合、中国の古代〜近代の歴史文献上で「苗」と記述されている人々と、1949年中華人民共和国成立以降の民族識別で「苗族」と認定された人々とを区別して論じる必要がある。苗族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在の苗族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹煕5年(1194)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。ただし、「三苗」の国は揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいたという口頭伝承が残っている。恐らく、宋代以降に漢族の南下に伴い、揚子江流域から山岳内陸部に移住してきたと考えられるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。最近では漢族の先祖とされる黄帝と争い敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤や一緒に闘った九黎の子孫が「三苗」であるとして、ミャオ族の先祖を蚩尤に遡る説も登場したが、これは1990年代半ばに入って中華民族の多元一体を強調する中央の学説に対抗して現れたミャオ族側の知識人による新たな言説である。文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。


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宗教 [編集 ]

ミャオ族の多くは独自の精霊信仰 を維持し、祖霊や祖先を信仰しているが、漢族文化に影響を受けた人々もおり、一部の人々はキリスト教 、仏教 に改宗している。地域により精霊信仰の信仰概念、用語が異なる。
タイのミャオ族の精霊信仰 [編集 ]

以下では特にタイのミャオ族の精霊信仰について述べる。タイのミャオ族は中国文化に影響を受けた精霊崇拝を行っている。[15] さらにシャーマンによる儀礼を持つ。タイのミャオ族は大きく白ミャオ族と青ミャオ族に分けられるが信仰は似通っている。

世界観は陰界(yeeb ceeb)と陽界(yaj ceeb)によって構成されており、さらに天界(ntuj)をつけ加える場合もある。 陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。

精霊は基本的にダー(Dab)と呼ばれるが、さまざまな種類と呼び名がある。

* 陰界の精霊

陰界にはツォー・ニュン(Ntxwj Nyug)と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・トゥアム・テーム(Nyuj Vaj Tuam Teem)がその仕事を補佐しており、魂の年齢を管理している。シャーマンの守護精霊(Siv Yis)もここに住むといわれる。

* 陽界の精霊

基本的には善意のある守護霊(Dab quas)と森などに住む悪意のある精霊(Dab qus)に分かれる。守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護していると考えられている。また、それぞれの男系の氏族長が祖先霊(Dab xwm kab)の祭壇を持っている。祖先霊の祭壇の隣には薬の精霊(Dab tshuaj)を作ることもある。さらに女性の寝室には結婚生活を守護する精霊(Dab roog)が祀られている。また、外界と家内をつなぐ家の入り口の敷居には敷居の精霊(Dab txhiaj meej)がおり、悪い精霊が家内に入ってくることを防いでいる。森の中には悪い精霊(Dab qus)がすんでいるとされる。特に、ポン・ツォーン(Pog Ntxoog)呼ばれる老女の精霊は恐れられている。
また、病気や驚いた際に人体より抜け出てしまうプリン(plig)と呼ばれる魂の概念があり、タイのピー信仰のクワン に近い。治療の際にはシャーマンによるフー・プリン(Hu plig)と呼ばれる招魂が行われる。

* 天界の精霊

天界には、人間を助けるヨーム・スア(Yawm Saub)という精霊がいるとされている。この精霊はミャオの洪水神話や、初めての結婚などの神話に登場する。
また雨をつかさどる龍(Zaj Laug)や虹(Zaj sawv)もいるとされるが、在所は海の下もしくは湖の下の宮殿であるとされている。その他にも太陽の精霊(Nkauj Hnub)、月の精霊(Nrang Hli)、雷神(Xob)などが知られている。

神話 [編集 ]

* 洪水神話:太古の洪水の際にミャオ族の一組の男女が天の精霊(ヨーム・スア Yawm Saub(タイ・ミャオ族))の指示に従い、瓢箪(船、太鼓の場合もある)にのって逃れる神話がある。
* 射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。

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外部リンク [編集 ]

* レコードチャイナ:ミャオ族(苗族) (日本語)
* チャイニーズ・オデッセイ (英語)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F