「自我」と個人と個:自己問題:母権制と父権制:差異、精神、東洋回

「自我」と個人と個:自己問題:母権制父権制:差異、精神、東洋回帰:脱西洋文明


テーマ:ポスト・ユダヤキリスト教西洋文明


以前、本題について論じたが、まだ不明確に感じられるので、再考したい。とは言え、余裕がないので、一言、二言(結局、長文になったが)述べるに留める。
 PS理論の凸i*凹i⇒+1(or 凸)の自己認識方程式であるが、凸iが自我と言えよう。凹iは非自我、無私性、共感性、他である。
 父権とは凸iに傾斜していると考えられる。そのために、凸i⇒+1の傾向をもつのである。つまり、物質+1に同化する傾向があるのである。
 少し説明が必要である。同一性とはどうも、凸iの傾斜に拠るのではないだろうか。つまり、差異共振において、Media Point(MP1)において、凸iの傾斜、自我の傾斜が、他者凹iを抑圧して、⇒+1へと帰結するのではないか。(だから、差異共振による同一性形成とは、一般的ではなく、凸i傾斜に拠るもののように考えれる。)
 凸i=自我はそれにおいては絶対的差異である。しかるに、原言語性をもつので、同一性へと傾斜すると考えられる。
 だから、自我は同一性へと帰結するのである。これが、自我同一性(凸i⇒+1)であり、所謂、利己主義とはここから生まれると言えよう。
 近代合理主義の場合、自我同一性が物質+1と結びついているのであり、唯物論的自我同一性=近代的自我の形成と一致する。

 
 では、それに対して、個とは何か。これは、個人とは異なる。個人主義の個人は、私見では、近代的自我と個との未分化の様態である。そして、今日、個人と個の区別が形成されていないと考えている。
 では、個とは何か。これは、実は、自我凸iと他者凹iとの即非関係、共立・共振関係にあると考えられる。
 また、個は即非性や共立性から⇒-1への共融へと向かうのであり、人間認識図では、第三象限領域を志向する、つまり、超越界を志向すると考えられる。言い換えると、個とは、超越的「個人」なのである。
 ここで留意すべき点は、自我凸iが存するが、それは、同一性や物質と結合するのではなく、あくまで、他者である無我・無私・共感性と関係するのであり、絶対的差異凸iと絶対的差異凹iとの関係であり、同一性や物質はまったくここには関与していないと見るべきである。(-1は暗黒物質反物質の可能性があるが、超物質、トランス・マターとも言えるかもしれない。)
 ただし、個はMedia Pointを介して、当然、物質界に関係するのである。物質界に関係する個とはどういう様態Modeなのだろうか。
 絶対的差異である個、絶対的超越的である個が物質界と関係するとき、それは、一般的には自我凸iと自我同一性凸⇒+1を介して、関与するだろう。
 つまり、絶対的差異的個とは不連続的に、自我、自我同一性を擬態として設定して、物質界と対処するということではないだろうか。つまり、個において、自我同一性が仮構されるということである。
 しかし、それは、唯物論的自我同一性ではないだろう。何故なら、元基には、超越性が存するからである。ただ、物質+1に対処するために、自我同一性⇒+1を利用すると考えられるのであり、自我同一性は唯物論的ではない。
 しかし、厳密に考えると、果たして、自我同一性によって、物質界に対処するのだろうか。
 それは間違いだろう。そうではなく、自我差異凸iによって、物質界に対処すると考えられる。確かに、凸iである自我は同一性への傾斜をもつが、それ自体は差異、絶対的差異の知性である。
 故に、同一性=言語を介しながらも、自我差異の視点によって、物質界に対処すると考えられる。
 だから、個とは、徹底して、差異、絶対的差異によって、物質界に対処すると考えられる。(追記:個を個者、個子、個単子、等と言えよう。)

 
 次に、この問題をジェンダー論的に、文化史論的に、人類学的に考えると、母権文化とは、凸iと凹iとの均衡の取られていた、差異の文化である。
 それに対して、父権文化とは、凸iに傾斜して、同一性志向、物質志向の文化であると考えられる。
 何度も既述したが、母権文化だけでは、物質主義文化、近代科学・技術は生まれなかったと言えよう。つまり、父権文化の必然性があるのである。確かに、母権制が続くならば、平和共存の社会・世界が継続した可能性がある。しかしながら、それは、停滞の社会でもある。
 父権制母権制の停滞する差異共存の社会を破壊して、同一性・物質文化の基盤を形成して、いわゆる、文明社会を形成することになったと考えられる。
 問題は西洋文明なのである。これは、強力な父権制文化をもつが、同時に、基礎に母権制をもつのである。
 この母権制古代ギリシア文化の栄光を産み出し、また、イタリア・ルネサンスの大文化を産み出したと考えられる。しかし、正確に言えば、父権的圧力の下に、母権的エネルギーが開花したと見るべきである。私見では、民主主義もベースは母権制にある。
 とは言え、西洋文明は、父権制優位、母権制劣位であることは言うまでもないし、この父権制優位ないし支配が近代資本主義の怪物を産み出したと考えられる。言い換えると、父権的同一性主義が近代資本主義を形成したのであり、その同一性的メカニズムは、差異を抹殺していくのである。
 ここに、脱西洋文明の力学の必然性があるのである。それは、脱同一性であり、差異への回帰である。新母権制である。新東洋回帰である。それは、霊主体従である。精神が主であり、物質が従である。そして、PS理論は正にそれに相応しい理論である。
 最後に、キリスト教について触れておこう。実は、数十年前から、キリスト教は矛盾した宗教であると直観していた。
 端的に、「父」(ヤハウェ)と「子」(イエス・キリスト)が矛盾しているのである。即ち、前者が父権制であり、後者が母権制である。しかるに、前者が後者を支配しているのである。ここに、キリスト教の精神的歪みがある。
 脱西洋文明志向(トランス・モダン・シフト)において、キリスト教が瓦解することになると考えられる。何故なら、トランス・オクシデントの志向とは新母権制的であり、いわば、「子」(イエス・キリスト)が「父」(ヤハウェ)を凌駕すると考えられるからである。そして、それこそが、「聖霊」の時代(フィオーレのヨアキム)である。
 因みに、ルドルフ・シュタイナーは、キリストとは、アフラ・マズダーであると説いている。
 それは、D. H. ロレンスで言えば、dark God, dark sunである。それは、-1の超越的太陽であると考えられる。プラトンでは、洞窟外の太陽である。
 仏教で言えば、大日如来であり、神道では天照大神である。


Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation