動物-人物相関象徴主義と生成変化論:差異共立一如態(MP1)と差異共

動物-人物相関象徴主義と生成変化論:差異共立一如態(MP1)と差異共振連続態(MP2)


テーマ:プラトニック・シナジー理論


生成変化と差異共立様態
http://ameblo.jp/renshi/entry-10586399271.html


先に以上のように考察したが、まだ、不明晰なところがあるので、さらに検討したい。
 問題の一つは即非である。これまで、即非的様態に関して、例えば、「わたし」は「山」であり、且つ、「山」ではないと述べてきた。あるいは、「わたし」は非「わたし」であるということでもある。だから、非「わたし」に「山」や「海」が入るのである。
 問題は、この「わたし」=非「わたし」が連続性であるのか、否か、である。
 ここは精緻、精密、厳密に考えたい。例えば、「わたし」は、「雲」であるという感覚知覚の場合、「わたし」は「雲」に変じていると言えよう。これは、連続性ではなくて、他者化である。
 これをドゥルーズガタリ(以下、D-G)の生成変化論と比べると、一見似ている。例えば、動物に生成変化することであるが、この場合、確かに、他者化するのである。
 しかしながら、即非的様態の場合は、他者化は同時に、非他者化でもあるのである。つまり、非生成変化でもある。
 「わたし」は「雲」である。且つ、「雲」ではない。また、「わたし」と「雲」は一如である。
 さらに精密に考察しよう。
 「わたし」は「雲」であるというのは、やはり、連続性でる。生成変化である。
 だから、「わたし」は「雲」であるというときは、差異共振化が生じているのである。
 ここは微妙な箇所である。差異共振はMP2(実軸ゼロ点)で生起するのである。
 MP1(虚軸ゼロ点)において、差異共立一如態であったが、MP2へと転換すると、差異が激しく振動して、相互変換が起きると考えられる。それが、連続性である。微分である。即ち、「わたし」は「雲」になり、「雲」が「わたし」になるのである。この共振から、「わたし」は「わたし」、「雲」は「雲」の同一性的二元論が生まれると思われるのである。即ち、⇒+1である。
 だから、即非性とは、二カ所において考えられよう。一つは、MP1とMP2の即非性、一つはMP2における差異共振の即非性である。しかしながら、 MP1の差異共立一如態は即非性ではないだろう。何故なら、差異は他者を志向するが、他者へとは連続化しないからである。
 私は基本的には、これまで、同一性現象(物質現象)と差異共振現象(即非現象)を区別して考えてきたが、両者はMP2が起点であると考えられるのである。
 思うに、ヘーゲル弁証法とは、正に、このMP2の事象を指していると思われる。対立が統合(同一性化)するからである。
 ここで簡単に整理すると、MP1は差異共立一如態であり、MP2は即非・差異共振・連続様態であるということであり、MP1とMP2との関係も一種の即非態であるというこである。つまり、MP1⇒MP2ということである。
 以上の考察を踏まえて、本題を考察しよう。
 ロレンスの動物-人物相関象徴主義であるが、それは、動物と人物とはあくまでも差異であり、差異共立関係を保っていると考えられる。ただし、照応関係はあるのである。
 それに対して、D-Gの生成変化主義とは、差異共振連続性であり、他者へと連続化すると考えられるのである。
そこには、差異共立の均衡・拮抗が欠落しているのである。
 つまり、それには、絶対的差異がなく、連続的差異しかないということになる。
 ドゥルーズの連続的差異(=微分)批判はPS理論の前提なので、ここでは詳述しない。
 とまれ、言い換えると、MP1においては、生成変化は生起しないということである。絶対的差異同士の共立・平行・並立が一如態をもって存すると言える。
 ということで、ロレンスの動物-人物相関象徴的リアリズムは差異共立的一如態をもち、D-Gの生成変化論とは、差異共振的連続態をもつということになる。前者は差異共立象徴的リアリズムと呼ぶこともできる。あるいは、単純に差異共立的リアリズムである。
 ここで、ついでながら、シュルレアリスムについて考えたい。それは、簡単に言えば、対立するイメージを並立させる表現方法であるが、一見、差異共立的表現に見えるが、そうではないだろう。それは、差異共振連続的表現であると思う。対立するイメージは連続的差異となって共振・共鳴するのである。例えば、シャガールの絵画を見ればわかるだろう。つまり、そこでは、差異は絶対的差異となっていないのである。
 それに対して、美術史では、シュルレアリスムに含められているルネ・マグリットを考えよう。
 例えば、『光の帝国』であるが、そこでは、昼と夜が絶対的差異となって共立していると、それも一如態をもって共立していると言えよう。
 持論はルネ・マグリットの絵画はシュルレアリスムではないというものであり、これでそれが説明できると言えよう。
 だから、ロレンスの差異共立的リアリズムに類似すると言えよう。このリアリズムをとりあえず、トランス・リアリズムと呼ぶことにしよう。
 さて、最後にさらに深化させると、MP1の差異共立からマイナス1への反転・回帰・再帰が考えられるのである。不可視界、「ダーク・マター」の領域になるのである。
 思うに、MP1の差異共立の一如態の感覚知覚は、神秘性、霊性をもっている。MP2は物質的感覚があるのに対して。
 思うに、MP2において、光があるならば、MP1には非光があるはずである。それを闇と呼ぶのは語弊が大きいのでやめる。
 それは、原光、プロト・ライトと言うことができよう。(以前述べた、凸iが原光であり、凹iが原闇であることにおける原光ではない。)
 これは、マイナス1のダーク・マター(暗黒物質)から生まれたものである。
 そう考えると、闇と光の中間領域のようにも考えられる。Twilightである。そう、そう呼ぼう、即ち、MP1にある原光とはTwilightであるということである。
 つまり、


Darkness⇒Twilight ⇒Light


ということになる。
 比喩的に言えば、Twilight Phosphorescenceと言えよう。ロレンスのTwilight、マグリットの不思議な漂う光輝、また、宮沢賢治の銀河の燐光は、MP1の原光を指しているのではないだろうか。
 思うに、青色はここに生じるのではないのか。闇から光へと進入するときのブルーではないのか。
 そして、逆に、光から闇へと進入するときに赤色が生まれるならば、それは、主にMP2から生起するのではないのか。
 そうならば、太陽とはMP2に存するのであり、不可視の太陽、霊的太陽はMP1に存すると言えるだろう。ロレンスが説いたDark sunとは、このことだろう。


参考:

D.H. Lawrence


Twilight in Italy
2. The Lemon Gardens


It is past the time to leave off, to cease entirely from what we are doing, and from what we have been doing for hundreds of years. It is past the time to cease seeking one Infinite, ignoring, striving to eliminate the other. The Infinite is twofold, the Father and the Son, the Dark and the Light, the Senses and the Mind, the Soul and the Spirit, the self and the not-self, the Eagle and the Dove, the Tiger and the Lamb. The consummation of man is twofold, in the Self and in Selflessness. By great retrogression back to the source of darkness in me, the Self, deep in the senses, I arrive at the Original, Creative Infinite. By projection forth from myself, by the elimination of my absolute sensual self, I arrive at the Ultimate Infinite, Oneness in the Spirit. They are two Infinites, twofold approach to God. And man must know both.

But he must never confuse them. They are eternally separate. The lion shall never lie down with the lamb. The lion eternally shall devour the lamb, the lamb eternally shall be devoured. Man knows the great consummation in the flesh, the sensual ecstasy, and that is eternal. Also the spiritual ecstasy of unanimity, that is eternal. But the two are separate and never to be confused. To neutralize the one with the other is unthinkable, an abomination. Confusion is horror and nothingness.

The two Infinites, negative and positive, they are always related, but they are never identical. They are always opposite, but there exists a relation between them. This is the Holy Ghost of the Christian Trinity. And it is this, the relation which is established between the two Infinites, the two natures of God, which we have transgressed, forgotten, sinned against. The Father is the Father, and the Son is the Son. I may know the Son and deny the Father, or know the Father and deny the Son. But that which I may never deny, and which I have denied, is the Holy Ghost which relates the dual Infinites into One Whole, which relates and keeps distinct the dual natures of God. To say that the two are one, this is the inadmissible lie. The two are related, by the intervention of the Third, into a Oneness.

There are two ways, there is not only One. There are two opposite ways to consummation. But that which relates them, like the base of the triangle, this is the constant, the Absolute, this makes the Ultimate Whole. And in the Holy Spirit I know the Two Ways, the Two Infinites, the Two Consummations. And knowing the Two, I admit the Whole. But excluding One, I exclude the Whole. And confusing the two, I make nullity nihil.

http://www.online-literature.com/dh_lawrence/twilight-in-italy/3/


ルネ・マグリット『光の帝国』
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/8951/sur.html



銀河鉄道の夜


銀河鉄道の夜』(ぎんがてつどうのよる)は、宮沢賢治 の童話 作品。孤独な少年ジョバンニが、友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語。
あらすじ [編集 ]
天の川 (7月22日)

一、午后の授業
銀河系 の仕組みについての授業。天の川 について先生に質問されたジョバンニは、答えを知りつつ答えることができない。次に指されたカムパネルラも、答えない。
二、活版所
放課後、ジョバンニは活版所 で活字 拾いのアルバイトをする。周囲の大人たちの態度は冷ややかである。仕事を終えたジョバンニは、パン と角砂糖 を買って家へ急ぐ。
三、家
牛乳 の未配達を知る。病気の母と、漁に出たきり帰ってこない父のことやカムパネルラのことなどを話す。牛乳屋へ行くついでに烏瓜 のあかりを川へ流す のを見に出かける。
四、ケンタウル祭の夜
母の牛乳を取りに牛乳屋に行くが、出てきた老婆は要領を得ず牛乳をもらえない。途中で、同級生のザネリたちに会い、からかわれる(一緒にいたカムパネルラは気の毒そうに黙って少し笑っている)。銀河の祭りに行くザネリたちと反対に、ジョバンニは一人町外れの丘へ向かう。
五、天気輪の柱
天気輪 の柱の丘でジョバンニは一人寂しく孤独を噛み締め、星空へ思いを馳せる。
六、銀河ステーション
突然、耳に「銀河ステーション」というアナウンスが響き、目の前が強い光に包まれ、気がつくと銀河鉄道に乗っている。見るとカムパネルラも乗っていた。
七、北十字とプリオシン海岸
北十字 の前を通った後、白鳥 の停車場で20分停車する。二人はその間にプリオシン 海岸へ行き、クルミ の化石を拾う。大学士が牛 の祖先の化石 を発掘している現場を見る。
八、鳥を捕る人
気のいい鳥捕りが乗車してくる。彼は、鳥を捕まえて売る商売をしている。ジョバンニとカムパネルラは鳥捕りに雁 を分けてもらい食べるが、お菓子 としか思えない。突然鳥捕りが車内から消え、川原でさぎを捕り、また車内に戻ってくる。
九、ジョバンニの切符
(以下、全体のおよそ半分にわたり章立てはない)
アルビレオ の観測所 の近くで検札 があり、ジョバンニは自分の切符 だけが天上でもどこまででも行ける特別の切符であると知る。
鷲 の停車場のあたりで、鳥捕りが消え、青年と姉弟が現れる。彼らは、乗っていた客船が氷山 に衝突して沈み、気がつくとここへ来ていたのだという。かおる(姉の少女)とは長い会話を交わす。
蠍(さそり) の火を眺めながら、かおるは「やけて死んださそりの火」のエピソードを話しはじめ、ジョバンニたちは、黙ってそれを聞く。その後列車はケンタウル の村を通過する。少女たちと別れ際に、「たった一人の本当の神様について」宗教的な議論が交わされる。
天上と言われるサウザンクロス(南十字) で、大半の乗客たちは降りてゆき、ジョバンニとカムパネルラが残される。二人は「ほんとうのみんなのさいわい」のために共に歩もうと誓いを交わす。その直後、車窓に現れた石炭袋 を見たふたりは、非常な恐怖に襲われる。ジョバンニはカムパネルラをはげますが、カムパネルラは気の乗らない返事したのち、「あすこにいるの僕のお母さんだよ」といい残し、いつの間にかいなくなってしまう。
一人丘の上で目覚めたジョバンニは町へ向かう。カムパネルラが、川に落ちたザネリを救った後、溺れて行方不明になったことを知る。カムパネルラの父(博士)からもうすぐジョバンニの父が帰ってくる手紙が来たと告げられる。ジョバンニはまだ暖かい牛乳と父の知らせを持って母の元に帰る。

解説 [編集 ]

漁から戻らない父のことでクラスメイトにからかわれ、朝夕の仕事のせいで遊びにも勉強にも身が入らない少年ジョバンニは、周りから疎外され、あたかも幽霊のような存在として描かれている。星祭りの夜、居場所を失い、孤独をかみしめながら登った天気輪の丘で、銀河鉄道に乗り込み、親友カムパネルラと銀河めぐりの旅をしばし楽しむ。旅の終わりにジョバンニはカムパネルラに、どこまでも一緒だと誓うが、カムパネルラは消えてしまう。悲しみのうちに目覚めたジョバンニは、まもなくカムパネルラが命を犠牲にして友達を救った事実を知る。この瞬間、ジョバンニは銀河鉄道の旅が何を意味していたのか気づき、日々の犠牲のひとつひとつの総和が、カムパネルラと共に行くことに等しいと悟る。さらに父が間もなく帰ってくることを知らされ、勇気づけられる。こうしてジョバンニは星祭りの夜、幽霊であった自分と決別して、母の元に戻ったのである。(以上、諸説あるため細部には触れず概略のみ記述)

その他、旅の出発前の風景描写として、老婆、黒い松林、カラス、黒い門、冷たい草など死を予感させる表現があるのに対し、旅から戻った後の風景描写として、白い牧場、白いズボンの労働者、子牛、熱い乳など生を感じさせる表現が使用されている点に注目。
みなみじゅうじ座 の石炭袋 。上方の明るい2つの星はβ星 とα星 。

銀河鉄道の旅は、銀河に沿って北十字から始まり南十字で終わる異次元の旅であり、ふたつの十字架はそれぞれ石炭袋を持っている[1] 。石炭袋が一般に暗黒星雲 だと知られるようになったのは最近のことであり[2] 、かつては天文分野の専門書でもしばしば「空の穴」と表現されていた[3] 。賢治は南北ふたつの石炭袋を冥界と現世を結ぶ通路として作品を構成した[2] とされている。

南十字の天上に行かなかったカムパネルラの行方については、ブルカニロ編にふれ輪廻 したという解釈[4] や、母の記述にふれ、万物の母 の元に帰ったという解釈[5] など、様々に解釈されていて定説はない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%B2%B3%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AE%E5%A4%9C