D. H. ロレンスの聖霊論の分析:獅子・父・闇と一角獣・子・光の闘争

D. H. ロレンスの聖霊論の分析:獅子・父・闇と一角獣・子・光の闘争の王冠・聖霊的融和・和解


テーマ:検討問題:思考実験・仮説・試論・備忘録



一番町にある駐日英国大使館正門の英国王室の紋章

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D. H. ロレンス(以下、ロレンス)の聖霊論(エッセイ『王冠』に述べられている)はある意味できわめてPS理論に酷似しているが、内容が独特で難解である。しかしながら、PS理論の視点から解明を試論したい。
 ロレンスは、キリスト教三位一体を換骨奪胎して、自身の聖霊哲学を述べる。
 それは、父と子が絶対的に対立するが、聖霊において、調和するという哲学である。
 父とは、一応、自我であるが、それは、近代的自我ではない。この点が根本的に重要である。ロレンスは旧約聖書ダビデがその代表であるとした。霊的ではなく、官能的な自我なのである。
 それに対して、子とはイエス・キリストである。(今、気づいたが、ロレンスは『王冠』において、獅子と一角獣の闘いが上部の王冠において調和するということを述べていたのである。獅子が父であり、一角獣が子であり、王冠が聖霊である。) 子とは、愛、無我・無私の精神である。それは、他者の精神である。
 言い換えると、官能性と精神性の絶対的対立・闘争とその和解・調和を説いているのである。
 ざっと以上のように基礎を確認して、PS理論から解明していこう。
 ロレンスの獅子=父は「自我」というものの、それは、単純に凸iにはならない。何故なら、それは、感覚・官能・身体的であるからである。
 これをどうみるのか。(また、今想起したが、獅子=父=闇で、一角獣=子=光という図式であったと思う。)
 闇は凹iの闇ではなく、マイナス1の「闇」に通じると思われるのである。おそらく、MP1に関係するものである。何故なら、それは、差異共立的一如であり、いわば、精神と肉体が一如的な様態であると考えられるからである。
 おそらく、母権的宗教、母神的宗教の様態に近いように思えるのである。
 次に、光の子・一角獣であるが、それは何か。それは、明らかに、凹iの精神のように思えるのである。無我・無私であるからである。
 ただし、光となっているので、単に、凹iではない。凹iを凸iで捉えた精神ではないだろうか。だから、一種、差異共振精神ではないのだろうか。言い換えると、他者性を知覚した精神である。単に、他者である凹iではない。だから、一種の衝突であり、差異共振の光ではないだろうか。そう作業仮説しよう。
 つまり、これは、他者の同一性化があるのである。他者の自我化である。とまれ、自我と他者(無我)の共振様態として考えよう。だから、MP2である。
 以上から、獅子=父=闇はMP1に、一角獣=子=光はMP2に関わることが判明した。
 そうすると、両者の闘争・対立とは、Media Pointにおける両極の対立ということになる。あるいは、差異と同一性との闘争・対立である。
 そして、王冠=聖霊が闘争・対立を和解させるということなのである。というか、両者の闘争・対立が王冠=聖霊という特異な時点を迎えて、和解・調和するということなのである。
 その聖霊の特異な時点とは何か。それは、MP1の差異共立的一如様態とMP2の差異共振様態とが調和するときではないのか。
 それは、MP1とMP2との即非的様態を現前するときではないのか。あるいは、両者の不連続的様態を認識するときではないのか。
 ならば、それは、正に、PS理論的Media Point Balanceと呼べるものではないのか。あるいは、Media Point Harmony、Media Point Peaceである。
 ロレンスは先駆者的にPS理論の核心を直観・直感していたと考えられるのである。