マイナス1とプラス1:ダーク・マターと物質:マザー・マターとファ

マイナス1とプラス1:ダーク・マターと物質:マザー・マターとファーザー・マター


テーマ:検討問題:思考実験・仮説・試論・備忘録


まだ、直観を整理できていないが、思考実験的に試論しよう。
 超越的物質が差異共立一如態に転化するとしよう。しかしながら、両者は相互変換できるとしよう。
 思うに、差異共立一如態は一種のエネルギー様態ではないだろうか。それも矛盾した言い方だが、静的エネルギー様態である。
 そして、それが、差異共振現象態=物質現象へと展開すると考えるのである。
 共立態と共振態はまったく異なる様態と考えられる。前者は、差異融合態とも言えるだろう。しかしながら、差異は差異として存立しているのは確かである。
 おそらく、問題は、超越的物質と差異共立様態の関係である。思うに、後者は前者の媒体化(メディア化)である。(かつて、メディア界という言葉を使用した。)
 端的に言えば、-1⇒MP(Media Point)⇒+1である。問題は、映像である。「観る」である。ヴィジョンである。
 原ヴィジョンは差異共立様態において形成されるのではないのか。そして、それが、差異共振へと展開されるならば、差異共振的ヴィジョンが形成され、それが現象となるのである。
 直観では、原ヴィジョンがイデアないしはエイドスである。そして、差異共振的ヴィジョンが同一性的ヴィジョン、ないし物質的ヴィジョンである。
 原ヴィジョンこそ、即非的ヴィジョンであり、それが、同一性ヴィジョンの源泉としてあると思われる。
 例えば、差異共立において、原「わたし」凸iと原「樹木」凹iの一如態があるとしよう。これが、差異共振現象では、「わたし」や「樹木」の二元論となるのである。客体・対象としての「樹木」があり、主体としての「わたし」が成立するのである。連続的同一性化ないしルシファー・アーリマン化である。
 思うに、原「わたし」がノエシスであり、原「樹木」がノエマではないだろうか。換言すると、前者が能動知覚であり、後者は被知覚(正確に言うと、被知覚の知覚である。簡単に言うと、「感性」である。そして、原「わたし」は「知性」である。ちなみに、Kaisetsu氏はボルトとナットと考えている。)ではないだろうか。
 超越的物質からの分化ないしは分身である差異共立態を原エネルギー様態であり、原ヴィジョン様態、イデア・エイドスとしよう。
 当然、ここには、なんらかの光が考えられる。私はこれを超越光、超光、ダーク・ライトと呼びたい。(ダーク・エネルギーはここに存するのではないだろうか。) だから、超越光⇒光、イデア⇒現象(物質)である。
 問題は超越的物質と差異共立の関係様態の意味である。思うに、差異とは認識情報系統であり、差異共立一如態の一如態は「物質」系統ではないだろうか。
 つまり、差異共立と差異共立一如態は別種のものと思われるのである。とりあえず、後者を原物質様態としよう。
 思うに、この原物質様態が、差異共振現象において、物質化するのではないだろうか。端的に言えば、原物質様態とは超越的物質様態ではないだろうか。
 ならば、超越的物質が物質に転換・変換・変容するということになる。-1⇒+1である。
 言い換えると、マイナス1がプラス1に縮約凝縮するということではないだろうか。つまり、原「わたし」が同一性=物質的「わたし」となり、原「樹木」が同じく、同一性=物質的「樹木」になるということである。
 生成門氏の視点を借りると、差異共立一如態における差異が枠化されて、物質化を被るのである。
 言い換えると、差異共立一如様態においては、対差異は超越的物質と共立し、いわば、卵の様態にあったが、それが、その共立一如様態が「破れて」、一如態を形成した超越的物質がいわば「核融合」によって、同一性=物質へと変容するのではないだろうか。これが、マイナス1のプラス1への縮約・収縮・凝縮である。
 このとき、プラス1には、もはや、差異は喪失されているのである。差異共立イデアから同一性=物質への転化は不可逆的である。
 原「わたし」は物質化されて「わたし」となり、原「樹木」も「樹木」となるのである。
 ただし、問題は、MPである。「心」、「精神」、認識の領域の問題である。それは、+1と⇒+1の相違の問題である。
 物質現象は端的に+1であるが、生成消滅する現象は⇒+1であると考えられるのである。つまり、エンテレケイアの物質態とエネルゲイアのエネルギー態は区別すべきということである。
 即ち、Media Pointの「心」、「精神」、認識性とは、物質態においては存しないが、エネルギー様態においては存するということになる。
 言い換えると、端的には、人間において、精神と物質的身体との絶対的齟齬が存するのである。
 しかしながら、超越的物質を考えると、精神はその変形である。だから、根本的には、超越的物質と物質との絶対的相違があると言えよう。
 ところで、差異共立一如態とは超越的物質と考えられるので、精神態とは超越的物質様態であると言えよう。だから、精神態とは本来、ダーク・スピリットなのである。それが、現象化するとき、いわば、光の表皮・皮膜をまとう、装うのである。つまり、視覚は光のスクリーンをもつのである。
 しかしながら、精神的視覚とは、本来、ダーク・ヴィジョンである。それは、Dark Sunを原視覚しているのである。言い換えると、超越光を原視覚しているのである。
 だから、視覚認識とは二重なのである。光を端的に視覚するが、同時に、超越光を潜在意識的sub-consciouslyに「感じる」のである。それで、視覚現象は不思議、不可思議なものが存するのである。そう、霊的視覚(霊視)があるのである。
 以上の視点から身体を考えると、物質的身体+1とは別に、ダーク・ボディがあると考えられる。それは、当然、差異共立的一如態の超越的物質的身体である。気的身体とはこのようなものであり、クンダリニーとは、差異共立一如態のダーク・エネルギーの位階的スペクトルと言えよう。
 最後に簡単に文化史的に考えると、超越的物質/ダーク・マターとは、言わば、マザー・マター(母物質)である。そして、差異共振現象による物質とはファーザー・マター(父物質)である。
 そして、Media Pointの虚軸において差異共立一如態があり、そこには、マザー・マターの「海」が「打ち寄せて」いて、Media Pointの実軸の差異共振様態においては、ファーザー・マターの端緒があると言えよう。
 ところで、マトリクスという言葉があるが、マザー・マターはトランス・マトリクスと言えるだろう。
 また、プラトンの母なるものであるコーラであるが、それは、思うに、差異共立一如態であり、マザー・マターに属すると言えよう。
 後で整理と同時に再検討を行ないたい。


追記:ゲーテの『ファウスト』において、かなり不気味に、「地底」に母の国(「妣が国」)が出てくるが、それは、マザー・マターを説いていると言えよう。そう、マザー・ランドである。
 ところで、ユング心理学は精神界を探究して、マグナ・マーテル(原母)に達しているが、それは、端的にはダーク・マター、超越的存在と観るべきである。つまり、ユング心理学を超越的存在論の一種と観るべきである。
 ここでハイデガー存在論について触れると、問題は、存在が実軸のMedia Pointに、つまり、差異共振様態に留まっていて、まったく差異共立一如態における超越的存在性が欠落していることにあると考えられる。つまり、物質の端緒に留まっていると考えられるのである。
 この視点からポスト・モダンを観ると、既述済みであるが、それは虚軸のMedia Pointを否定して、実軸のMedia Pointに留まっているのである。後期デリダは、やはり、超越性を否定するものの、虚軸的差異には達している。
 また、ドゥルーズガタリであるが、『哲学とは何か』に拠るならば、彼らは、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点を混同しているのである。つまり、差異共立と差異共振を混同しているのである。そのため、本来、差異共立一如様態の「事象」(即非的事象)が、「超越的」ではなく、内在的に、潜在的に捉えられてしまっているのである。つまり、物質との連続体として捉えられているのである。