視覚と言語:個・差異的視覚と言語・同一性的視覚:敗戦後の同一性傾

視覚と言語:個・差異的視覚と言語・同一性的視覚:敗戦後の同一性傾斜の言語が視覚空間を破壊した


テーマ:美術・デザイン・ファッション・美容・整形


先に、+iと-iは言語的思考をすると述べたが、補足ないしは補正がいるが、その問題は以下の検討で解明されるだろう。
 さて、視覚と言語の関係について考えたいが、これは、他ならぬ、差異と同一性の関係の問題である。
 これまで、差異即非共振現象が根本にあり、それから、言語習得が為されて、言語同一性が形成される述べた。これは当然、自己同一性(自我)と密接に関係する。
 結局、本来、視覚は差異共振現象の感覚である。しかるに、+iの傾斜があると差異共振的視覚知覚を、同一性的形態・形式(構造:カントの超越論的形式)の枠で制限すると考えられるのである。この差異共振エネルギーの同一性的抑圧・排除は疎外・阻害である。
 精神はここで、矛盾を起こしているのである。差異的視覚と同一性的形態の矛盾である。しかしながら、同一性に傾斜しているので、差異の抑圧は一般には注意されないのである(フッサールの自然的態度、仏教の無明)。
 しかし、本来の正当な芸術家、アーティストは、この被抑圧の差異的視覚(Media Point Vision)を肯定的根拠として、創造活動を行なうのである。だから、差異的視覚と同一性的形態との二重ヴィジョンがそこに生じるのである。それは、 Kaisetsu氏が取り上げるルネ・マグリットの絵画空間に典型的に表現されていると考えられるのである。この二重ヴィジョンは、差異的空間と同一性空間との境界をもつ視覚空間と考えられるのである。
 さて、本題に戻ると、+i傾斜は同一性形態を生み、また、言語形成と結びつき、言語同一性を生み、結局、同一性自己(自我)を形成するのである。
 本来の差異、即ち、自己差異である+iと他者差異である-iは、同一性+1に還元されるのである。これは、
(+i)*(-i)=+1と表記できよう。自己同一性方程式である。
 日本は敗戦後、連合国(米国)と売国奴との占領政策によって、公教育的に敗戦以前の東洋・日本的伝統文化を排除して、近代合理主義をいわば金科玉条として受容したのである。
 近代合理主義とは取りも直さず、自己同一性主義(近代的自我の同一性主義)であるから、敗戦後以降の日本において、差異的視覚を抑圧して同一性的視覚が支配的になったと考えるのは自然である。
 これは、当然、思考においても同じである。差異的思考を抑圧して同一性的思考(果たして、思考と言えるか問題であるが、暫定的、便宜的に思考と呼ぶ)が支配的になるのである。
 日本の場合、父権的同一性が強いので、自己同一性主義は父権的同一性主義になったと考えられる。(西洋の場合、ルネサンスプロテスタンティズムに基づく、個の原理が基底としてあるが、日本の場合は、本来、東洋・日本的伝統文化の個の原理があったが、それが、否定されて、残存している父権主義と自己同一性主義が結合したと考えられる。)
 結局、差異的視覚/差異的思考が同一性的視覚/同一性的思考によって抑圧・排除されたのであるが、ここで、言語の問題を入れると、差異的言語が同一性的言語に抑圧・排除されたということになる。
 つまり、敗戦後以降、日本社会において、同一性的視覚/思考/言語空間が支配してきたのである。これは、当然、政治・経済においてもそうである。
 とまれ、ここで、対象を芸術・アートに限定すると、敗戦後の日本を支配する同一性的視覚のために、芸術・アートは本来の差異的視覚を奪われて、正当性を喪失してきたと一般には考えられる。結局、擬似的芸術・アートが、似非権威となり、本来の、正統な芸術・アートを奪い、殲滅してきたのである。これは、当然、音楽や文学にも当てはまるのである。つまり、商業的には、同一性的美学を宣伝して、大衆を麻痺させて、ガラクタを与えてきたのである。ここには、似非評論家が強く洗脳活動を行ったのであり、害悪となっているのである。(例えば、村上春樹の作品である。言語観念を同一性観念として使用していて、差異的具体性を喪失した、非現実的な文学である。)
 ここで、言葉の問題があるのである。似非評論家は、差異的視覚/思考/言語を喪失したまま、同一性・抽象的言語の虚構を作り出してきたと考えられるのである。
 民衆、国民との接点を喪失した悪しき、閉鎖空間の構築を手助けしてきたのである。
  以上のことを換言すると、身体性の喪失と言うことが言えよう。視覚的表現にしろ、言語的表現にしろ、音楽的表現にしろ、身体性を敗戦後の日本は喪失してきたのである。
 より正確に言えば、視覚より、言語の方が同一性的である。つまり、言語的同一性主義によって、視覚本来の差異性、差異即非共振性を抑圧、排除してきたと考えられるのである。
 これが、正しい見解である。つまり、敗戦後の日本は近代合理主義=自己同一性をマインド・コントロール的に受容して、言語的同一性主義を形成して、視覚空間を同一性形態・フレームに抑圧、固定して、それを破壊してきたと言えよう。それは、開発という自然破壊、また、東京の醜悪な高層ビル等に如実に見て取ることができる。


参照:『光の帝国』は、白い雲の浮かぶ青空が「光」であり、シルエットのようになる木々や屋敷は「影」であり、真ん中の街灯が、両者の中心である Media Pointと考えられる。思うに、青空を差異とすると、シルエットが同一性となるし、逆に、青空を同一性とすると、シルエットが差異となるだろう。ネガとポジの陰陽性がある。そして、この極性をMedia Pointの街灯が産み出していると言えよう。
 とまれ、ここには、差異共振視覚空間が明快に表現されていると言えよう。


追記:参照の同一性であるが、正確に言うと、⇒の先端である。そして、差異は⇒の起点である。だから、Vector Modeである。だから、「光」は先端となり、「影」は起点となり、また、逆に、「影」が起点となり、「光」が先端となると考えられるのである。つまり、ここには、同一性はなく、ただ、差異の起点と先端の極性があるということになるのである。



マグリット『光の帝国』

http://artguide.269g.net/category/242053-10.html
おまさんたアートでも見に行かんかね


1954年に描かれたマグリットの代表作,「光の帝国」。

この作品に,マグリットはこんな言葉を残しています。

 「 白昼の空の下に夜の風景が広がる。
   最初は判らないが,もう一度よく見て初めて,実写的に描かれた
  この舞台装置の超現実性が意識される。
   「光の帝国」の中に,私は相違するイメージを再現した。つまり,
  夜の風景と,白昼の空だ。風景は夜を想起させ,空は昼を想起させる。
  昼と夜のこの共存が,私達を驚かせ魅惑する力を持つのだと思われる。

   この力を,私は詩と呼ぶのだ。」

http://blog.livedoor.jp/kibora_hiro/archives/cat_50034005.html
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