現代日本政治家は権力亡者だ:日本の似非民主主義/愚民主主義:東京

現代日本政治家は権力亡者だ:日本の似非民主主義/愚民主主義:東京解体へ


テーマ:ニッポン亡国凶相:売国奴と愚民と奴隷根性


結局、現代の日本人は「個」として生きていないのである。思うに、自我としても生きていない。いわんや、自己として生きていない。
 ほぼ動物に退化しているのが、現代日本人である。これは、滅ぶしかないだろう。しかし、この亡国の原因を考えるべきである。今日、折口信夫を知っているは、ごく一部の教養人であろう。
 彼は、日本人は宗教性が長らく欠けていたと述べている。記憶があいまいだが、鎌倉時代以降、宗教性が衰退したと述べている。そして、「第二次世界大戦」の敗戦は、日本の神が西洋の神に敗れたことであると述べている。
 折口信夫の鋭敏なところは、宗教性が権力を形成すると考えていることである。これは、マルクスよりはるかに鋭いのである。
 ここで明確にすべきことは、私が言う宗教性とは、精神的エネルギー、主観的エネルギー、個的エネルギーのことである。神を信じる云々は二義的なことである。だから、生への信念の問題と言える。
 とまれ、折口は敗戦後が新しい神道の時代になることを期待したのであるが、それは、まったく無視されたと言えよう。敗戦後の連合国の占領政策の洗脳が効いたのである。(思うに、明治維新は宗教的エネルギーの産物である。)
 私が言いたいことは、政治とは「宗教性」そのものであるということである。ヘゲモニーである。
 日本における、この「宗教性」=権力性を衰退させた原因が見極める必要がある。それは、直感では、徳川幕府である。江戸という非生産的消費主義的都市を造り、江戸を唯物論的にしたのである。つまり、原東京とは唯物論都市なのである。ここが「宗教性」=権力性を喪失させた原因と思うのである。
 私見では、日本のマイナーな地方は「宗教性」=権力性があるが、それが、東京という唯物論都市によって、破壊されてきたのである。これは、徳川幕府の悪しき遺産であると思うのである。
 思うに、日本が生き延びるには、東京を解体する必要があるのである。これが癌である。そして、東京をまねる地方都市も癌である。
 考えれば、明治維新を創出したのは、薩長土肥である。東京という唯物論都市に感染して腐敗堕落したと考えられる。東京を解体せよ!


1年以上失業114万人=職探し長期化―総務省1〜3月期調査

5月18日18時20分配信 時事通信
 総務省が18日発表した労働力調査(2010年1〜3月期平均)によると、完全失業者(332万人)のうち期間1年以上の長期失業者は前年同期比23万人増の114万人で、四半期ベースで過去3番目に多い水準だった。100万人を超えたのは05年1〜3月期以来5年ぶりで、増加幅は02年の調査開始以来、最大になった。
 総務省は「職がなかなか見つからず労働市場に長期間滞留する失業者が多く、さらに増える可能性もある」と指摘する。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100518-00000146-jij-pol

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折口信夫
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折口 信夫(おりくち しのぶ、明治 20 年(1887 年 )2月11日 - 昭和 28 年(1953 年 )9月3日 )は、日本の民俗学 、国文学 、国学 の研究者。

釈迢空(しゃく ちょうくう)と号した詩人・歌人でもあった。折口の成し遂げた研究は「折口学 」と総称されている。
略歴 [編集 ]

柳田國男 の高弟として民俗学 の基礎を築いた。みずからの顔の青痣をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク)と名乗ったこともある。

歌人 としては、正岡子規 の「根岸短歌会 」、後「アララギ 」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。 1924年大正13年北原白秋 と同門の古泉千樫 らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
柳田國男との関係 [編集 ]

大正4年(1915年 )の『郷土研究 』誌に載った論文で、互いに似通った折口と柳田の論文が前後して載せられるという事件があった。折口が昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4,5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口が言った「先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ、厳しさが表れている。

そして柳田も「(折口君という人は)真似と受け売りの天性嫌いな、幾分か時流に逆らっていくような、今日の学者としては珍しい資質を具えている」とその点では認めていた。ただし「マレビト 」を認めない柳田と折口の間に論争があったのも事実である[1] 。二人は国学 の先輩方に当たる賀茂真淵本居宣長 師弟のように、教えを受けながらも正当だと思った所は譲らず真理の追求を磨く学者の関係を持っていたといえる。

柳田は折口より十二歳年上であったが、共に昭和20年(1945年 )の敗戦 時には60歳を既に迎えていた。その戦後のこと、重い口調で柳田は折口に話しかけたという。「折口君、戦争中の日本人は桜 の花が散る ように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどに潔く死ぬ事を美しいとする民族が他にあるだろうか。もしあったとしてもそういう民族は早く滅びてしまって、海に囲まれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか」その問いにしばらく両者深く思い沈んでいたという。折口には、18年間共にした養嗣藤井春洋 の硫黄島玉砕 という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的で、敗戦の詔 を聞くと四十日間喪 に服し、自分の死ぬまで遺影 前の供養を欠かさなかったという。第二次大戦 で失った戦死者の鎮魂 は大きな課題で、戦没者 が生前に殉じる価値を見出そうとした皇国 などといった概念も天皇人間宣言 とともに潰え果てたのである。柳田も日本人の神や魂といった問題意識は共有していて、折口は後その問題を「民俗史観における他界観念」という著に収斂させていくこととなる[2] 。

柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納 的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロ という独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹 的な性格を持っていたとされる。なお角川ソフィア文庫 版『遠野物語 』に折口の跋文がある。
トリビア [編集 ]

* 天文学者萩原雄祐 は府立今宮中学校時代に折口に師事したことで知られている。
* 三島由紀夫 の短篇「三熊野詣」に登場する国文学者藤宮や、舟崎克彦 の長篇『ゴニラバニラ』に登場する民俗学者折節萎(おりふし・しぼむ)は折口がモデルといわれている。
* 同性愛者 (男色 家)であり、高弟加藤守雄 に同衾を強要したことでも知られる。養子の折口春洋 (旧姓藤井)も事実上の愛人 だった。このような折口の性的指向に対して柳田國男 は批判的で、折口の前で加藤に向かって「加藤君、牝鶏になっちゃいけませんよ」と忠告した[3] こともある(牝鶏という言葉は、男性同士の性行為 を意味する鶏姦という語と関係があり、いわゆる稚児 、若衆 を指すと解される)。
* 「同性愛を変態だと世間では言うけれど、そんなことはない。男女の間の愛情よりも純粋だと思う。変態と考えるのは常識論にすぎない」と述べた。[4]
* 折口が主査となり博士号を授与した、西角井正慶 、高崎正秀 、藤野岩友 、今泉忠義 、大場磐雄 の高弟五人を指して折口信夫の五博士という。各博士たちは、折口の学問を継承し、各自の分野において優れた業績を残した。「五博士」という言い方は、折口自身が言い始めた。大場磐雄による西角井正慶の追悼文(「西角井正慶さんのみたまにささげる詞」『芸能』第13巻第2号(通巻144号) 1971年2月)には、「先生(引用者注・折口信夫)によつて学位を頂き、先生から五博士と呼んで下さつた仲間」と書かれている。

年譜 [編集 ]
折口信夫生誕の地」の碑と文学碑(大阪市浪速区敷津西1丁目)

* 明治 20年(1887 年 )2月11日 - 大阪府 西成郡 木津村 (現在の大阪市 浪速区 鷗町)に父秀太郎、母こうの4男として生まれる。
* 明治23年(1890年 )- 木津幼稚園に通う。
* 明治25年(1892年 )- 木津尋常小学校 (現在の大阪市立敷津小学校 )に入学。
* 明治27年(1894年 )- 叔母えいから贈られた『東京名所図会』の見開きに初めて自作歌を記す。感謝の念篤く、『古代研究 』にはこの叔母への献詞を載せている。
* 明治29年(1896年 )- 大阪市南区竹屋町、育英高等小学校 に入学。
* 明治32年(1899年 )4月 - 大阪府第五中学校(後の天王寺中学) に入学。中学の同級生には武田祐吉 (国文学者)、岩橋小弥太 (国史学者)、西田直二郎 などがいた。
* 明治33年(1900年 )夏 - 大和 の飛鳥坐神社 を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗 の僧侶 で仏教改革運動家である藤無染 (ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある[5] 。富岡によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性があるという。
* 明治34年(1901年 )- 15歳になったこの年に父親から『万葉集略解』[6] を買ってもらう[7] 。『文庫』『新小説』に投稿した短歌 一首ずつが入選。
* 明治35年(1902年 )- 成績下がる。暮れに自殺 未遂。
* 明治36年1903年 )3月 - 自殺未遂。作歌多し。
* 明治37年(1904年 )3月 - 卒業試験にて、英会話 作文・幾何 ・三角・物理 の4科目で落第 点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌 の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。大和に3度旅行した際、室生寺 奥の院で自殺を図った若き日の釈契沖 に共感、誘惑に駆られる。
* 明治38年(1905年 )3月 - 天王寺中学校を卒業。医学 を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校 受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學予科 に入学。藤無染と同居。約500首の短歌を詠む。
* 明治40年(1907年 )- 予科修了、本科国文科 に進んだ。この時期國學院大學において国学者 三矢重松 に教えを受け強い影響を受ける。また短歌 に興味を持ち根岸短歌会 などに出入りした。
* 明治43年(1910年 )7月 - 國學院大學国文科卒業。卒業論文は「言語情調論」。
* 明治44年(1911年 )10月 - 大阪府立今宮中学校 の嘱託教員(国漢担当)となる。
* 大正 元年(1912 年 )8月 - 伊勢 、熊野 の旅に出た。
* 大正2年(1913年 )12月 - 「三郷巷談」を柳田國男 主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。
* 大正3年(1914年 )3月 - 今宮中学校を退職し、上京。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸 の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという[8] 。
* 大正5年(1916年 )- 國學院大學内に郷土研究会を創設する。30歳。『万葉集』全二十巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行する。
* 大正6年(1917年 )
o 1月 - 私立郁文館中学校 教員となる。
o 2月 -「アララギ 」同人となり選歌欄を担当する。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。
* 大正8年(1919年 )1月 - 國學院大學臨時代理講師となる。万葉辞典を刊行する。
* 大正10年(1921年 )- 柳田国男 から沖縄 の話を聞き、7〜9月、最初の沖縄・壱岐旅行。
* 大正11年(1922年 )
o 1月 - 雑誌「白鳥」を創刊。
o 4月 - 國學院大學教授 となる。
* 大正12年(1923年 )6月 - 慶應義塾大学 文学部講師となる。第2回沖縄旅行。
* 大正13年1924年 )1月 - 亡師三矢重松の「源氏物語全講会」を遺族の勧めで再興。後慶應義塾大学に移し没年まで続ける。
* 大正14年(1925年 )5月 - 処女歌集『海やまのあひだ』を刊行。
* 昭和 2年(1927 年 )6月 - 國學院の学生らを伴い能登半島 に採訪旅行し、藤井春洋 の生家を訪う。
* 昭和3年(1928年 )4月 - 慶應義塾大学文学部教授となり芸能史を開講。またこの年には「アララギ」を去って北原白秋 らと歌誌『日光 』を創刊。
* 昭和7年(1932年 )- 文学博士 の称号を受ける。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる。
* 昭和10年(1935年 )11月 - 大阪木津の折口家から分家する。第3回沖縄旅行。
* 昭和15年(1940年 )4月 - 國學院大學学部講座に「民俗学」を新設。愛知県三沢の花祭り、長野県新野雪祭りをはじめてみる。
* 昭和16年(1941年 )
o 8月 - 中国へ旅し、北京で講演。
o 12月 - 太平洋戦争 起こり、藤井春洋応召。
* 昭和19年(1944年 )7月 - 藤井春洋 、硫黄島に着任。春洋を養嗣子 として入籍。
* 昭和20年(1945年 )
o 3月 - 大阪の生家が戦災により焼失する。大本営より藤井春洋の居る硫黄島の玉砕 発表。
o 8月15日 - 敗戦の詔聞くと箱根山荘に40日間籠もる。
* 昭和23年(1948年 )
o 5月 - 古代感愛集により芸術院賞受賞。
o 12月 - 第一回日本学術会議会員に選ばれる。
* 昭和24年(1949年 )7月 - 能登一ノ宮に春洋との父子墓建立。
* 昭和25年(1950年 ) - 宮中御歌会選者となる。
* 昭和28年(1953年 )
o 7月初め - 箱根行き、健康すぐれず。
o 8月31日 - 衰弱進み慶應義塾大学病院に入院。
o 9月3日 - 胃癌 のため永眠。養子として迎えた春洋(戦死)とともに、気多大社 のある石川県 羽咋市 一ノ宮町にある墓に眠る。折口家の菩提寺願泉寺 に分骨が納められている。

系譜 [編集 ]

折口家は木津の願泉寺 門徒の百姓 であったが、曽祖父彦七の時から商家 となり、医院と生薬 、雑貨を商った。長兄が医者の後を継いだ。[7]

祖父の造酒ノ介はもと、大和の明日香村 岡寺前の岡本善右衛門の8男であったが、同地の古社飛鳥坐(あすかにいます)神社の累代の神主家 飛鳥助信の養子 となった上で、折口家に養子として入り、医を業として従来の家業を兼ねた。

父・秀太郎河内国 の名主 の家の次男で、折口家の養子となり医を継いだ。信夫が生まれて七年のち双生児 の弟が誕生するが、実は母こうが生んだのではなくて、同居する叔母 ゆうと父の秀太郎との間に生まれたのであった。こうした家庭内の愛情にかかわる葛藤も、信夫の心に深い陰影を刻んだ[9] 。

先妻                  ┏あゐ


 ┃                  ┃


 ┣━━━彦次郎     秀太郎    ┣静


 ┃            ┃     ┃


彦七            ┣━━━━━╋順


 ┃            ┃     ┃


 ┣━━━造酒ノ介    ┏こう    ┣進


 ┃     ┃     ┃      ┃


とよ     ┣━━━━━╋ゆう    ┣信夫


       ┃     ┃      ┃


      つた     ┗えい    ┣親夫


                    ┃


                    ┗和夫

・・・・・

外部リンク [編集 ]

* 折口信夫:作家事典
* 折口 信夫:作家別作品リスト (青空文庫
* 大阪市 浪速区折口信夫(おりくちしのぶ)生誕の地」の碑と文学碑
* 羽咋の偉人−折口信夫・春洋
* 折口信夫父子 ゆかりの地|羽咋市折口信夫父子の墓
* 関連

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