二つの資本主義:金融資本『帝国』の超克:有機的共同資本主義と無機

二つの資本主義:金融資本『帝国』の超克:有機的共同資本主義と無機的金融資本主義


テーマ:トランス・モダン社会/世界の創造・構築


以下、スロー人氏の問題提起は透徹したものである。金融資本、世界金融資本が世界を支配し、国家を統制するということである。いわば、ネグリとハートの説く『帝国』の形成である。
 問題は、交換価値における同一性価値(追記:この記述はいわば後付であるが、正確さを期して訂正した)にとって替わる、共同価値を客観的に導入できるかである。
 問題は、商業における交換価値であるが、それは、単に、量的価値だけでなく、質的価値も内包しているのではないだろうか。簡単な例をあげると、例えば、ブルーレイ・レコーダーを購入するとしよう。価格の差がほとんどないときは、機能の優れた製品、つまり、質的価値の高いものを買うだろう。例えば、価格が10万円ならば、機能がいいもの、あるいは、使い勝手がいいものを購入するのだろう。
 また、たとえ、A社の製品が9万5千円で、B社のものが10万円であっても、やはり、機能性、使い勝手を考えると、B社のものを買うという選択をすることが考えられる。
 安く買うという合理的原理であるが、これは、それは、単に量的価値原理だけではなく、質的価値原理が入っているのである。
 当然ながら、いくら安くても、劣悪な商品は買わないのである。
 ということで、交換価値には、表面的な量的価値だけでなく、質的価値、差異的価値が内包されていると見ることができる。(追記:マルクスが説いた使用価値であるが、それは、実に貧弱な発想である。端的に、同一性的使用価値であり、質的、差異的価値が抜けているのである。仮に例えば、お米5kgはすべて2000円であり、産地も銘柄も生産年度も無視されるのである。お米の使用価値は、単に、5kgの量的価値であり、味や汚染等は問題にされないのである。『資本論』の欠陥の一つはそこにあると言えよう。)
 では、問題は、交換価値に内包されている質的価値・差異的価値の評価の仕方である。
 金融資本とは、本質的には、

  1. 1⇒+1⇒+1⇒・・・の世界であろう。ここには、資本主義の内的本質の(+i)*(-i)⇒である共同生産力が欠落しているのである。

 つまり、金融資本主義と共同資本主義とは似て非なるものであるということになるだろう。今は、余裕がないので、検討できないが、前者に対抗するには、後者を進化させることではないだろうか。 


追記:尻切れトンボなので、補足すると、金融資本は、共同資本(と資本主義のコアの部分を呼ぶ)に拠る交換価値の質的価値・差異的価値をすべて、同一性価値に抽象還元してしまうということである。つまり、交換価値における質的価値・差異的価値を無視するということである。つまり、一般的に、生産物の売買における質的価値・差異的価値を、金融資本は完全に無視して、同一性価値のみの増殖を目的とするのである。
 つまり、金融資本とは、共同生産ではなく、交換価値の同一性価値(利益)の増殖を目的とするだけであり、共同資本生産体(産業)の質・差異的価値は度外視するのである。言い換えると、金融資本とは、共同資本生産体の質・差異価値を無視して、ただ交換価値の同一性価値の増殖のみを追求する無機的な経済体であるということになる。共同資本生産体を有機的資本主義とするならば、金融資本主義とは、無機的な資本主義である。後者は、いわば、悪性のウィルスである。母体を破壊するウィルスである。
 だから、金融資本に対するコントロールが必要なのである。米国の場合、本来、コントロールする法律(例えば、グラス・スティーガル法)がどんどん無くされていき、リーマン・ショックになったのである。(とまれ、有機的資本主義は、多神教的資本主義であり、無機的資本主義は一神教的資本主義とも呼べよう。)
 この問題は極めて、哲学的、あるいは、イデア論的である。本質は共同資本主義であるのに、帰結が金融資本主義である。
 ps理論から見ると、Media Pointに当たる経済体が必要なのである。思うに、例えば、共同有機的資本銀行がそれに当たるのではないだろうか。それは、金融資本的投資は禁止されて、共同有機的資本的融資が認められるのである。
 これは、オバマ大統領が目指しているものだが、ウォール・ストリートから大変な反対にあっている。
 とまれ、金融資本とは、健全な有機的共同資本主義に巣くったガン細胞のようなものである。これを治療する方法が必要である。減価通貨制度はそのようなものの一つであるが、その他、様々な方策があり、それを連携させる必要があると言えよう。それについては後で検討したい。


追記2:記述がやや不明瞭である。簡単に言えば、共同有機体的資本主義とは、実に、自然(じねん)的なのであるが、金融無機的資本主義は、同一性主義=唯物論=メカニズムであるということである。前者を生命体とすると、後者は死体である。だから、消滅貨幣は説得力があるのである。
 また、前者はエネルゲイア(現実態)であり、後者はエンテレケイア(終局態)である。つまり、活動態と終末態である。先に、ミイラ崇拝、ゾンビ主義と言ったが、その通りである。
 最後に言おう、有機体的共同資本主義は善であり、無機的金融資本主義は悪である。この悪の超克がトランス・モダン・ゾロアスター教的使命・エンゲージメントである。


追記3:結局、資本主義とは、異質な経済のキメラであるということになる。哲学的に言えば、差異と同一性の連続的同一性主義なのである。つまり、フッサール的に言えば、自然的態度の経済的具現化である。
 資本主義の超越論的力学が同一性力学に飲まれて、認識できないのである。
 とまれ、現今の資本主義は、本来、相互に不連続である有機体(生命)と無機質(物質)が、不合理に連続的に接合されたような経済体なのである。「分裂症」的経済なのである。整合性の欠落した経済体なのである。
 これを切り離して、前者を独立させるべきであり、そうすると、後者の病巣は死滅するはずである。ゾンビ退治である。


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くたばれ、「Too big Too fail」

 「Too big Too fail」。日本では数年前の金融危機のさい、小泉政権の大臣だった竹中氏などがよく使っていたセリフだが、このセリフの本家本元のアメリカでも、近年の金融危機下で同じセリフが大声で叫ばれている。


 その結果は、国民から巻き上げた税金を原資にして、いわば博打の胴元である金融業者のためにそれを融通してあげたわけだ。


 儲かったのは、金融業者だ。日本でも大銀行はますます超大銀行となり、アメリカでもゴールドマンサックスやJPモルガンなどの勝ち組ばかりか、シティーバンクなどの負け組も救われたのだった。そして、彼らはこの博打を始める前よりも肥大化したのだ。


 簡略して言えば、この金融危機を利用して、デリバティブなどの紙切れでしかない見せ金を、国民の現金、キャッシュで、つまり国民の犠牲の上に、現金化・キャッシュ化したということだ。

http://ameblo.jp/adco/entry-10460281893.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節