差異(精神・自己)と同一性(物質・自我)との混同力学:連続的同一
差異(精神・自己)と同一性(物質・自我)との混同力学:連続的同一性と父権的傾斜
テーマ:自己認識方程式(+i)* (-i)⇒+1
この問題は不連続的差異論の意義に関係するが、ps理論の視点から解明したい。
というか、実質は既に解明されているので、再確認の意味で検討したい。
精神(+i)*(-i)は、Media Pointを介して、+1へと展開する。この+1が同一性である。即ち、物質であり、自我である。本来は差異であるが、それが、同一性へと転換するのである。これが、以前述べた連続的同一性である。即ち、差異が同一性と連続化するのことである。つまり、本来、不連続な差異が同一性と連続化する事態、混濁した事態である。
そして、端的に、この様相が本件のテーマである混同力学の実体であると言える。
思うに、自然の力学は連続性を伴うのである。それ故、自己を見失うのである。しかし、これには意味がある。自然的連続性を脱却して、真の自己へと帰還するという意味である。これが、人類の物語の本質である。
そして、自己は他者を内包しているので、社会的正義を実践するのである。つまり、社会的進化が志向されるのである。
さて、本題をもう少し説明すると、この連続化によって、精神と物質が混淆され、矛盾様態となる。近代合理主義以前は、精神は宗教権力が担い、それとも別に、世俗生活が物質と関係した。いわば、二元論があったのである。
しかるに、近代合理主義は、同一性(物質・自我)の視点から連続的混淆様態を整理(合理化)したのである。そのために、本源の精神・差異・自己が否定されたのである。まったく本末転倒である。(持論は近代的自我は狂気であるということである。)
この同一性主義が差異を否定・抑圧・排除・隠蔽するのであり、端的に、内的暴力なのである。そのために、近代的自我は内的暴力を内包し、他者に対して、差別・暴力・攻撃的になると言える。
言い換えると、差異の否定とは、差異にある内的他者を否定するので、外的他者に対して、攻撃的になると考えられる。
しかし、当然、外的他者への攻撃ばかりでなく、自己自身への攻撃でもある。故に、心の病気(精神病)になるのである。
思うに、近代合理主義とは、同一性へ傾斜した力学をもつのであるが、それは、デリダが指摘したように西洋文明のロゴス中心主義に根源があると言えよう。あるいは、一神教的な、ないしは、父権的な同一性力学にである。
そう、この同一性への傾斜とは、母権的というよりは、父権的であると言えよう。なぜなら、母権性は、本来(今日には当てはまらないが)、差異を保持するものであるからである。
しかし、この同一性傾斜の力学は的確に説明する必要がある。
これは簡単に言えば、「陽」の力、プラス・エネルギーに存しているのではないだろうか。これが、いわば、男性的な力学である。
それに対して、差異を保持する力学は、「陰」の力、マイナス・エネルギーに拠るのではないだろうか。ps理論から言えば、マイナス1を形成する力学である。
プラスが太陽とすれば、マイナスは月である。父権的な力学はマイナス=月を否定してしまうと言えよう。
しかしながら、端的に、マイナス1とは何か。プラス1は同一性であるのである。これを差異としたくなるが、そうではない。差異はMedia Pointにあるからである。
マイナス1は、反同一性である。反物質、反自我である。いわば、影である。おそらく、ダーク・マターはこれである。あるいは、虚と言ってもいいのではないだろうか。プラス1が実ならば、マイナス1は虚である。
しかしながら、より実感的に言えば何か。思うに、実感する「心」、情感の在処ではないだろうか。つまり、経験論的な「心」である。
それに対して、Media Pointは超越論(超越)的な「心」と言えよう。それは、理論的なものである。実感的なものではないだろう。
そう見ると、プラトンのイデア界はMedia Pointに存すると言えようし、コーラはマイナス1ではないだろうか。(先には、-iと考えたが。この問題は検討課題としたい。)
そして、精神(精霊)界とは、虚軸であると言えるのではないだろうか。とまれ、ここで留める。
追記:イデア界と精神界の区別が以上でいいのか問題である。
しかし、イデアはMedia Pointに存すると思われる。そして、精神・精霊・霊魂は虚軸に存すると思われるのである。だから、以上でいいのではないだろうか。
追記2:神話学的に見ると、イシスとオシリスの神話における太陽であるが、オシリスがプラス1としても、イシスはMedia Pointではないだろうか。
しかし、父権的神話となると、イシスに当たるものが、怪物となり、殺戮されるのである。そう、Media Pointが混沌とされるのである。そして、プラス1へと傾斜するのである。そう、神話でウロボロスとされるものは、不正確であろう。本来はMedia Pointである。超越的極性(太極)である。
ギリシア神話でアポロを考えると、両面が混在していると言えよう。それが、ニーチェの『悲劇の誕生』に現れていると考えられる。また、ゼウスもそうであろう。ギリシア神話は母権的神話と父権的神話が重なっているのである。
追記3:差異は原存在、同一性は現存在と仮に対応させて考えてみると、ハイデガーの存在論とは、 フッサール現象学の混濁化である。フッサールの意識(超越論的主観性)の場と自然的態度は不連続であるが、ハイデガーは、両者を存在的にして、かつ、連続化させてしまったのである。つまり、意識(超越論的主観性)の場と自然的態度を連続させ、意識の場を存在、そして、自然的態度を現存在に置き換えたと考えられる。
そのため、フッサール現象学の画期的な不連続性が否定されてしまったのである。
もっとも、存在をハイデガーの意味でなく、認識主体の意味で使えば、差異を存在、同一性を現存在と見ることは正しいことになる。
追記4:行為等に味があるというときの「味」とは、マイナス1のことではないだろうか。余韻とか余情とか気韻とかは、それではないだろうか。