存在的現象と物質的現象:四元的世界:虚数的差異とMedia Pointと混

「存在的現象と物質的現象:四元的世界:虚数的差異とMedia Pointと混淆と物質」


先に以下の考察を行ったが、まだまだ不明なところがあるのでさらに検討したい。
「存在について:現象と存在と物質」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10454122532.html


物質的現象が通常の現実と考えられるものである。例えば、眼前にある杉の木は、物質的現象である。しかしながら、同時に、それは存在的現象である。つまり、存在的現象と物質的現象が一体化しているのである。
 そして、両者は通常区別されないのである。混同されていると言えよう。


 (ここで立ち止まって、厳密に見ると、果たして、物質的現象という用語を用いていいのか疑問である。先には、現象=存在と物質を区別したのだから、物質的現象というと一貫性がなくなるからである。
 しかし、夢の現象や映画の現象と物質の「現象」を考えると、物質的現象という言い方は可能ではある。
 思うに、先の考え方を訂正して、存在的現象と物質的現象の区別をここで作業仮説的にしてみたい。
 だから、本論を続けることになる。)

 
 存在的現象には、例えば、夢現象、映画現象、美的現象、精神現象、宗教現象等がある。それに対して、物質的現象とは、近代科学で分析するような対象の現象である。ps理論で言えば、+1である。
 問題は、どうして二つの現象があるのかということである。あるいは、存在的現象はどうして物質化しないのかということである。あるいは、どうして、物質化する現象があるのかということである。
 丁寧にみよう。例えば、精神現象である「わたし」という存在(自己と他者の即非共同態)は、身体として現象している。身体を物質とするならば、「わたし」という存在的現象は物質化していることになる。
 思うに、「わたし」という存在的現象は身体という物質的現象と「混合」しているのである。キリスト教の用語を使えば、「受肉」しているのである。
 だから、身体や存在という事態があいまいになりやすいと言えよう。思うに、混合様態があると思う。感覚なのか心的様態なのかあいまい状態があるのである。
 例えば、「苦しい」とは、身体が「苦しい」のか、心が「苦しい」のか、あいまいである。
 思うに、存在的現象と物質的現象(この場合は身体的現象)が混合していると見るべきであり、この混合様態、ないしは、混合的現象を確認すべきであろう。
 そうすると、三種類の事象を考えるべきであろう。即ち、


1)超越(虚数)的差異:(+i)*(-i)
2)存在(精神)的現象(Media Point or ⇒)
3)物質的現象(+1)


である。(追記:ここでは混合様態、混合的現象の記述が不正確である。あるいは、2の存在的現象の考え方が混乱している。正しくは、以下の四つの世界の3の世界が正しいのである。)
 思うに、誕生以前の世界(「前世」:追記:「前世」は誤りである。「前世」の後の死後の世界である。)や死後の世界(「他界」)は1の世界ではないだろうか。そして、現世は2と3ではないだろうか。また、近代科学・技術や資本主義は3の世界のみを発達させたと言えよう。
 さて、本論に戻ると、問題は、2と3の世界の混同・混淆にあることである。だから、四つの世界が考えられる。即ち、


1)超越(虚数)的差異:(+i)*(-i)
2)存在(精神)的現象(Media Point or ⇒)
3)混淆的現象(2と4)
4)物質的現象(+1)
 
である。一般には、3の混淆的現象の世界を生きているのであるが、近代科学・技術/資本主義が発達したので、4の世界へ傾斜しているのである。唯物論の世界である。うつ病・精神病の世界、交換価値中心主義(金融資本主義)の世界、暴力・差別・疎外・被搾取の世界、カルト・原理主義・洗脳/マインドコントロール・狂気の世界でもある。(因みに、この根本的内因は、ヤハウェ神にあるだろう。ヤハウェはある意味で、アンラ・マンユ悪神である。)
 ここでフッサールの開拓した現象学を考えると、それは、3と4の世界をエポケー(判断停止)して、2の超越的現象を取り出したことに大画期性(ブレーク・スルー)があると言えよう。
 しかし、ハイデガー存在論は、それを看過して、あるいは、無視して、あるいは、それに無理解で、3の世界を存在的世界として提起したのである。これでは、現象学が混乱したのは当然である。存在は2の世界に求めるべきであるのに、ハイデガーは3の世界に求めたのである。そして、なんとか、2の世界を取り戻そうと努力したが、フッサールの超越論的現象には届かなかったと考えられる。(ハイデガーの現存在や世界内存在は端的に、3の混淆的世界である。そして、本来の存在とは、2の世界であるはずなのに、それを3の世界の内奥、内在性に求めているのである。つまり、連続論なのである。)
 今日、通常、一般、4の物質的世界に傾斜した3の混淆的世界に生きているので、2の超越的現象、存在的現象、精神的現象のことに無知になっているのである。そのために、経済・社会・文化が混乱・狂乱しているのである。
 トランス・モダン社会とは、意識においては、2の世界を取り戻すことにある。2の世界観をもつことで、モダン・ワールド(ないしはポスト・モダン・ワールド)から脱出(エクソダス)することができる。
 ps理論的に「解脱」した人が増えれば増えるほど、新世であるトランス・モダン・ワールドがやってくると言えよう。一人一人の覚醒(ブッダ)が今や肝心なのである。


追記:ヘーゲル精神現象学の根本的問題は、2の世界と4の世界を一致させたことである。精神=物質としたのである。これは、観念論的唯物論である。以前述べたように、マルクスレーニンヘーゲル哲学を唯物論的に継承したのである。


追記2:Media Pointないしは⇒はエネルゲイアであり、(+i)*(-i)はデュナミスと言えるだろう。しかし、言わば、霊界と言えるだろう。