反感(ルサンチマン)の発生:内的他者に対する根源的反感:ヤハウェ

反感(ルサンチマン)の発生:内的他者に対する根源的反感:ヤハウェ文明の終焉と新女神文明の夜明け


テーマ:ポスト・ユダヤキリスト教西洋文明


『反感(ルサンチマン)の発生について:内的他者に対する反感が根源にあるのか:父権主義の発生又は謎の解明へ向けて:差異共振極性と同一性的二項対立との異質性・不連続性:同一性原理の突然変異性:ヤハウェ文明の終焉と新女神・東洋文明の夜明け』


先に、以下のように、反感とは、鏡面に外的他者=ライバルが現われたとき発生すると述べたが、果たして、内的他者に対して、反感が生じないのかという疑問が浮んだので、この点について検討したい。
 今の直感では、先の考察とは反対に、内的他者への反感があるのではないかと思える。Media Point における虚軸から実軸への不連続的転移において、内的他者-iは、原同一性自己+iにとっては、不都合な存在となると考えられる。本来、双子の片割れであり、親しい存在であるが、同一性志向性においては、いわば、邪魔になる存在である。だから、当然、その時点で、原同一性+iにとって、原他者-iと差異共振性(+i)*(-i)は、反感を覚える存在、状態のはずではないのか。
 ここでも直感で考えよう。「独立」しよう(同一性志向性)とする原同一性+iにとって、原他者-iと差異共振性(+i)*(-i)とは、いわば、抵抗するものであり、原同一性の主観にとっては、反感を催すものではないのか。つまり、原同一性の「自立」の方向(同一性志向性)に対して、それら(本当は、一つで、それ)は、いわば、纏(まと)わりついて、「自立」させない反作用をもたらすと考えられるのである。だから、原同一性はそれらに反感を覚えると考えていいと思うのである。
 ならば、この内的他者への内的反感が原初にあり、それが、外的他者へ投影されると見るのが正当であると考えられることになる。その方が論理的である。外的他者が鏡面に出現する以前に、内的他者に対して反感を抱いているのであり、それが、外的他者に反発すると思われるのである。言い換えると、内的暴力(内的戦争)が外的暴力(外的戦争、つまり、普通の戦争)をもたらすということになる。そう、原同一性の原他者へ抱く優越感とこの内的反感を一如であると言える。
 また、さらに一歩を進めると、この内的優越感と内的反感は、裏返しではないだろうか。平明に言えば、劣等感の裏返しではないのか。反感というのは、本来、優れたものに対するものと考えられるのである。精緻に考えてみよう。ここは、父権主義の秘密を解くキーポイントである。というのは、内的他者・差異共振性とは文化史的には母権主義を意味するのであり、同一性志向性とは、父権的志向性と考えられるからである。
 端的に言えば、同一性志向性とは極端な志向性である。陰陽で言えば、完全な陽に向かうことであり、陰が消失する事態である。いわば、極陽である。極性が消失し、自己完結的となる。(もっとも、極陽とは極陰でもある。つまり、極陽の裏返しが極陰である。)力学的にはそれは、自然的ではあるが、質的、内面的にはどうなのか、である。
 ここで持論の父権主義の同一性傾斜論を導入して考察しよう。内的他者・差異共振性(母権主義)に対して、同一性志向性(原父権主義)は、理解できないものを感じるはずである。わかりやすく言えば、極性精神に対して、二項対立精神は理解できない、不可解なものを感じるはずである。平俗に言えば、女性を男性は理解できない、不可解なものに感ずることと等価である。【だから、Media Point に生起した同一性志向性(原父権主義)とは、一つの突然変異ではないだろうか。異質なものではないのか。あるいは、不連続なものではないのか。言い換えると、女性と男性は完全に他者同士ではないのか。それぞれ、別宇宙の生命体ではないのか】
 理論的には上記のように、極性の極端なケースとして考えることができるが、やはり、同一性志向性とは特異であると思えるのである。何故なら、極性が原理であり、他者とは共鳴するのが本来的であり、他者を排除するのは、原理から外れるからである。極性原理にとって、二項対立原理とは、異常である。
 理論的に考えてみよう。極性(陰陽)において、極陽になった場合、果たして、極陽は陰を排除しているのか。それは、排除していない。陰は単に隠れているだけである。いわば、新月状態である。だから、極陽・極陰を考えても、それは、二項対立ではないのである。
 だから、やはり、同一性志向性=二項対立志向性=原父権主義は、極性原理にとって、突然変異的、異質、異常なのである。極性原理にとり、二項対立はエイリアンである。極性を善にすれば、二項対立は悪である。
 結局、二つの異質な、不連続な原理があると見るべきである。ならば、突然変異的に発生した同一性志向性にとって、差異共振原理は理解できない不可解なものであり、当然、劣等感を感じるものであるから、反感を覚えるはずである。これで解明できた。内的他者(差異共振性=母権原理)に対して、原同一性+iが内的優越感、内的反感を覚えるというのは、根本的には、内的他者に対して、劣等感を感じているからである。つまり、父権原理とは、母権原理に根本的に劣等感を感じているために、反感を感じて、裏返しに、虚栄的な優越感をもつのである。これが、父権暴力の原因である。結局、父権原理の単純さが、盲目に、不合理に母権原理を否定して抑圧しているのである。そして、父権原理の典型がヤハウェである。そして、今日、このヤハウェ文明が終焉を迎えたのである。ヤハウェ葬送の時代であり、新女神文明の夜明けなのである。
 付け加えると、「東海」氏が慧眼にも女性へのコンプレックスが今日の文明にはあると述べていたのである。恐れ入る次第である。
 
参照:
 他者への反感、憎悪、ルサンチマンが生じるには、次のステップが必要となる。同一自己/鏡像自己が形成された後、外的他者が出現したときから、反感の可能が生じると思われる(作業仮説)。それもライバルとしての外的他者である。これをどう見るのか。
 鏡面の位置にライバルの位置があると言えよう。同一性自己像を鏡面の他者に投影するが、鏡面の他者は、それと一致せずに、同一性自己は不快を催すと考えられる。このときに、反感が生起すると言えよう。
 この力学を考察しよう。同一性自己=鏡像自己は既に内的他者を否定しているのである。しかし、それは、内的他者への反感を意味していない。しかし、鏡面の他者=ライバルが出現したとき、それは、実は、否定された内的他者-iの喚起を意味するのではないだろうか。これはどういう力学か。
 そもそも内的他者の否定が鏡面に投影されて外的他者の否定を生むのである。だから、外的他者=ライバルの出現とは、内的他者の否定の心的装置(同一性心的装置)を阻害するものである。ここでこそ、反感(憎悪、ルサンチマン)が発生すると考えられる。言い換えると、内的他者の否定が反感の潜在力なのであり、鏡面の外的他者=ライバルの出現とともに、反感が現実化・実動化(エネルゲイア化)すると考えられるのである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10215023687.html