自我(同一性自己)の優越感の構造について:超越的同一性鏡面と同一

自我(同一性自己)の優越感の構造について:超越的同一性鏡面と同一性鏡像の癒着に基づく短絡的な同一性自己の優越意識の発生


本件について、さらに整理したい。
 Media Point には、基本的に三相があると見るべきである。すなわち、差異共振像、同一性志向性、並びに、差異志向性である。これが、「三柱の神」である。あるいは、三つ巴である。そして、同一性志向性と差異志向性は二律背反(アンチノミー)的である。
 とまれ、問題は、差異共振像と鏡像との関係である。鏡像とはいったい何か。
 先ず、鏡面を明確にする必要がある。鏡面とは何か。これは、直観では、同一性志向性が開いた視野・地平であろう。端的に、現象界である。
 しかしながら、同一性志向性の根源には、差異共振像があるのである。これは、超越光である。言い換えると、差異共振像とは、超越光像である。【一神教の原型はここかもしれない。しかし、三元・三相・「三柱」性を見るのが本来的である。だから、一神教とは、本来の三神教(原三神教)を端折って発生したものと考えられよう。原因ではなく、結果としての超越光像を超越神・唯一神にしているということになる。】
 そして、同一性志向性とは、本来、差異共振像=超越光像から発していると思われる(作業仮説)。すなわち、超越光から同一性光へと変容するのである。そう、同一性光が鏡、鏡面である。そして、この同一性光鏡面に差異共振像を投影して反照した像が鏡像であると考えられる(これは、既述のことであるが)。
 この同一性光鏡面(以下、同一性鏡面)に投影された差異共振像は、先に述べたように、いわば、捨象されたものである。
 
 ここで、整理し直す必要があると思われたので、変更したい。即ち、鏡面のことである。それは、現象界のことであると述べたが、現象界は単純に同一性志向性だけによって形成されたものではなく、差異志向性も働いているのである。現象自然界は、Media Point が端的に作用しているのである。
 だから、現象自然界の同一性像とは、Media Point が開いていて、差異共振像=超越光像を、なんらか、反照しているはずである。後光、光背、アウラ、あるいは、宗教・神話的には、大日如来阿弥陀仏、アフラマズダ、アマテラス、オシリス等がそういうものであると考えられる(因みに、以前、イデア叡知光と呼んだことがある。また、神器の鏡であるが、それは、端的に、この超越光を反照する鏡と言えるだろう。)。
 ここで、鏡像問題に戻ると、鏡像は先に述べたように差異共振像の投影としての同一性像となるのである。それは、Media Point 的な同一性、差異共振的同一性ないしは超越的同一性像である。そして、これが、模範像・手本・見本・雛型等である。そして、この超越的同一性像に対して、同一性志向性=同一性自己(自我)が自己投影して、鏡像同一性化するのではないのか。言い換えると、超越的同一性像を所有化するのである。そして、 Media Point 性を否定して抑圧するのである。これが先に述べた、差異共振像の同一性像への投影の真相である。
 かなり複雑である。鏡面の差異共振的同一性像(超越的同一性像)に同一性志向性が投影するのであり、そのとき、前者の超越性・差異共振性が否定されるのである。言い換えると、一神教的同一性自己の形成が生起するのである。何故なら、同一性志向性が差異共振性(多神教性)を否定して、同一性自己(自我)が、自身を二項対立の優位項(優越項)に置くからである。
 とまれ、鏡像とは、超越的同一性像に同一性像を投影した反映であるということである。この同一性像はいわば、自己陶酔して、同一性自己(自我)に対して、無批判なのである。自惚れ、慢心しているのである。つまり、本体である差異共振像=超越光像の反映である超越的同一性像と「差異」を無視して、同一性自己(自我)を肯定しているからである。視点を変えると、超越的同一性像の超越的光に目が眩んでいるのである。同一性自己自身に、いわば、超越性を与えてしまっているのである。(これこそ、一神教の原型であると考えられる。)
 この盲目となった独裁的な同一性自己(自我=一神教的自己)を理性的に治癒するには、上記からも予想されるが、先ず、同一性自己と超越的同一性(鏡像)の不連続性を認識して、重ね合わせを否定して、超越的同一性の根源が超越的差異共振性であることを認識することである。そして、これが、PS理論の本質である。そして、具体的・実践的な方法についは既述済みである。
 最後に、まとめると、超越的同一性像という鏡面に同一性自己を投影し、反照したものが鏡像であり、その結果生まれる鏡像的同一性自己(自我)とは、超越性と同一化・融合化することにより、無自己批判的に、自己を優越化していると考えられるのである。そして、盲目に優越化した独善・独裁・独断的同一性自己は、当然、Media Point における他者・差異を否定・抑圧・排除するのである。というのは、本来、同一性志向性とは、差異志向性を否定するので、今や、優越化した同一性自己(自我)は、内在し、再帰的に活性化する差異志向性を無視するからである。換言すると、差異志向性を否定する同一性志向性力学に基づく同一性自己は、今や、超越的同一性と無批判に融合・同一化(同一性主義化)しているので、差異志向性が再帰的に活性化しても、それを否定し、いわば自動的・機械的に、他者・差異を否定・抑圧・排除・差別することになるのである。これで本件の解明を終える。
 

参照:
《本来、ライバルとは模範・手本・雛型である。だから、本来、模範である鏡像を差異共鳴像は模すのである。これが、自己投影である。しかし、これは、内的他者の否定であり、外的他者の否定に帰結する。だから、本題の自己優越感の発生とはこの鏡像自己(同一性自己)の形成に拠ると考えられる。
 しかし、何故優越感が発生するのか。なぜ、同一性自己(自我)を優位とし、他者を劣位とするのか。端的に、二項対立原理の発生の意味である。
 根本から考えると、Media Point における差異共振像と同一性志向性の対立があると考えられる。この問題は上述のごとく、既述であるが、精緻・緻密に考えたい。
 Media Point において差異共振像があり、そこでは、自己は他者であり、且つ、他者ではない等の様態が発現している。自己は他者でないというのは、自己は自己であるという同一性を示唆しているし、ここから、同一性志向性が発動・発現すると思われる。
 しかし、逆に言うと、自己は他者であるというのは、差異志向性であると言えよう。だから、Media Point において、同一性志向性と差異志向性が並立していると言えよう。
 初期成長過程において、同一性志向性が主導化すると考えられる(これは、主に男子の成長過程に当てはまるだろう)。それは言い換えると、差異志向性が否定抑圧(否定と反対は違う心的事象である。否定とは、排除的であり、反対とは、維持的である。)されることである。》

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