デカルトのコギト・エルゴ・スムについて:同一性自己と差異他者の極

デカルトのコギト・エルゴ・スムについて:同一性自己と差異他者の極性自己


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


いったい、デカルトのコギトの主体とは何だろうか。一見、同一性自己に思えるが、そうではない。問題は「疑うことのできないものとしての私の思考がある」点である。疑うことができないと考える「わたし」が問題なのである。つまり、「私の思考」を疑うことができないと判断する「わたし」である。
 「私の思考」はその後、近代合理主義になったが、「私の思考」を相対化する「わたし」は何かである。端的に言えば、それは、正に、差異としての「わたし」である。
 だから、コギトとは本来、差異自己であり、これが、同一性自己(近代的自我、近代合理主義)を目指したのである。これは、正に、Media Point における同一性志向性としてのコギトと言えるだろう。本来、差異でありながら、差異を否定して、同一性化していくのである。自己否定的なコギトなのである。
 すると、コギトは反転を潜在させているということになる。差異志向性が内在しているのである。それは、スピノザライプニッツによって開始されたと言えるし、また、主にドイツ観念論によって展開されたと言えよう。ただし、カントとヘーゲルにしろ、同一性主義が支配的であったのは否めないである。デカルトの後塵を拝しているのである。そう、『資本論』のマルクスも同じである。差異をまったく切り捨てて、同一性主義としての価値を完全展開させているのである。
 経済学的には、やはり、アダム・スミスの「見えざる手」の方が差異を肯定したと言えるだろう。市場とは差異的である。そして、哲学的にはフッサール現象学が、同一性志向性をエポケーして、デカルトの差異としての「わたし」を復権させたと言えよう。それは超越論的主観性と呼ばれているが、それは、同一性志向性の原点の超越的自己を提示したものと考えられる。明晰な差異共振的自己認識までは達しなかった。しかし、正確に言えば、既述の通り、後期フッサールには、実質的には同一性志向性と差異志向性との均衡が入っていると思う。つまり、実質的には(無意識においては)、差異共振性に達していたが、意識においては、同一性認識のままであったのである。
 ここで、差異自己(コギト)について少し考えてみたい。私の思考を疑うことができないと考える「わたし」が差異自己であるが、いったいそれは何であろうか。それは「私の思考」を対象化・相対化している「わたし」である。言い換えると、他者としての「わたし」である(他者自己)。敷延すると、同一性自己とは別に、他者自己が存するということになるだろう。
 これは実に重要な問題である。というのは、+iの自己は知性を形成するが、-iとは、感情ではないかと思いたくなることが多いからである。つまり、-iにある知性を認めるのか、それとも、感情を認めるのかは、きわめて重大な問題であるからである。
 どうやら、-iは他者自己であり、知性・認識性をもっていると認めるべきであると考えられてきた。平明に言えば、自己とは本来、二人であるということである。「わたし」と他者の二人存しているということである。神話的には、双子ということだと思うが、極性的双子(太極的双子、陰陽的双子)と見るべきである。深層心理学的には、意識的自己と無意識的他者ということになるかと思う。後者は前者を観察しているのである。だから、自己投影ということが可能になると考えられる。
 では、どうして、-iの差異他者は感情性と感じられるのか。それは、+iと-iとの共振によって、共感性が形成されていて、それが、感情と感じられるからであろう。言い換えると、精神感情が、両者の間にあることになる。境界的なエネルギー様態である。そして、その精神感情の彼岸には、知性・認識をもつ差異他者が存していることになるのである。そう、差異他者は自己内のエイリアンと言ってもいいだろう。多神としての神でもある。

追記:コギト・エルゴ・スムと言っておきながら、スム(我在り)について述べていなかったので、ここで補足したい。
 コギトが差異自己ないしは他者差異であるが、それがスムとなるとはどういうことなのか。「我在り」とは存在であり、身体性と考えられる。どうして、他者が存在であり、身体性となるのか。
 それは、精神身体を意味すると考えられる。Media Point である。ということは、スムは物質身体ではなく、精神身体であるということである。言い換えると、心身一如である。PS理論から見ると、Media Point は精神身体=心身一如であり、同一性知性=近代合理主義から排除された他者は当然、精神身体=心身一如に位置することになるのであり、そのために、スムは存在・身体と感じられるのではないだろうか。
 ここでひと言言っておくと、ハイデガーの存在はここでいう存在・身体ではない。ハイデガーの「存在」とは、実は存在の虚無・空虚のことである。(これは仏教の無ではない。仏教の無とは空と一体の思想である。)空ろ、洞である。Media Point において、超越性から同一性へと変換されるが、超越性と同一性の境界の同一性面が「存在」である。それは、構造に似るが、超越性を予見する点で異なるのである。ドゥルーズの「差異」は境界を解消して、構造と一体化したものである。実軸のゼロ点とも言えよう。否、虚軸のゼロ点と実軸のゼロ点を連続化させたものが、ドゥルーズの「差異」である。だから、動的な構造主義、発生的構造主義になるのである。これは、レヴィ=ストロース構造主義が元祖であり、山口昌男はそれを両義性として少し敷延したのである。つまり、ゼロ点が「エネルギー」・ポイントとなるのである。連続的生成エネルギーであり、疑似的エネルギー、虚構的エネルギーである。何故なら、特異性を喪失しているからである。だから、特異性という用語を連続性の意味で使用するドゥルーズ哲学には犯罪的な虚偽・詐欺性があるのである。ドゥルーズ哲学とは、経済的には、同一性主義金融資本と同じである。無限の信用創造ができるのである。
 ところで、話題が変わるが、ネグリのいう生硬な概念である構成的権力とは、明快に言えば、Media Point のエネルゲイア(動態)ということではないだろうか(丁寧に言えば、政治志向的Media Point である。だから、構成的権力とはMedia Point Political Powerだろう。MPPPである。)。それが、実際の法制となると、同一性化して硬直することを述べているのではないだろうか。民主主義の問題を考えると、これは、本来、Media Point エネルギー的に、差異共振主義と考えるべきである。しかし、近代民主主義となると、それが、同一性形態をとってしまい、卑俗な近代的自我によって、民主主義の理念が消失するのである。民主主義とは差異共振主義と常に理解すべきである。トクヴィルが説く米国の民主主義はそういうものであった。