身体と物質の違いについて:精神身体と物質身体:カオスとガイア:身

身体と物質の違いについて:精神身体と物質身体:カオスとガイア:身体小宇宙と大宇宙


テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係


先の検討により、身体と物質との区別が明瞭になってきたので、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10198359931.html
この際明確にしたい。
 例えば、身体とはほとんど誰にでも明快である。気温が下がれば、ほとんど誰もが「寒い」と感じるだろう。この「寒い」とは何だろうか。身体的感覚なのか、心的感情なのか。
 心と身体の近代西欧二元論で考えると、そのような疑問が生じるのである。この二元論は誤った区別であると私は考えるのである。何故なら、それは、身体と物質とを混同しているのからである。(追記:デカルトを継いだスピノザも、この二元論に基づいて思考している。しかし、精神身体という概念に基づけば、心身並行論は不要なのである。)
 プラトニック・シナジー理論から言うと、精神(心)⇒身体であり、身体とは本来、精神身体なのである。この⇒がとれた身体はいわば、物質的身体であり、物質科学で考える「身体」である。
 この精神身体ないしは身体の概念から見ると、「寒い」とは、正に、精神身体感覚である。そして、物質的感覚とはありえないだろう。
 物質は感覚しないのである。感覚するのは、精神身体なのである。(追記:物質的身体は、刺激[「寒い」]に対して、反応はするが、それは、機械的、メカニズムである。つまり、例えば、皮膚神経や脳神経が、量的な反応をするということである。)
 ここでやや飛躍して言うと、ギリシア神話で、カオス(空隙)からガイア(大地の女神)が生まれるが、カオスがMedia Pointで、ガイアは正に精神身体(身体)に当たるだろう。
 ならば、ウラノス(天空)は何だろうか。これは、端的に、光であろう。つまり、+1ではないだろうか。即ち、イデア→カオス→ガイア→光ではないだろうか。光は宇宙(コスモス)としてもいいのではないだろうか。
 自己認識方程式で言うと、⇒+1の⇒がカオスであり、⇒+1がガイアであり、+1がウラノスではないだろうか。先に、イシス⇒オシリスと言ったが、⇒オシリスがガイアであり、オシリスウラノスになるだろう。この点は微妙で興味深いが今はおいておこう。
 さて、身体の問題に返ると、結局、通常、確認している身体とは精神身体(「ガイア」)であるということになる。そう、神秘主義では、小宇宙=大宇宙という図式があるが、それは、正しいだろう。そして、古代宇宙論占星術も基本的な世界観では、正しいことが証明されるだろう。この問題もきわめて興味深いがおいておこう。
 では、精神身体(身体)と物質身体(物質)の関係はどうなるだろうか。西洋医学は、後者を対象としているのである。(東洋医学は西洋医学の精緻さを欠くように思えるが、前者を対象にしていると言えよう。)
 哲学的には、前者は差異的同一性であり、後者は同一性である。そして、同一性とは抽象なのであり、近似・疑似的な、あるいは、ヴァーチャルなものなのである。表層ないしは上層と言ってもいいかもしれない。
 つまり、差異的同一性を同一性という仮想性に抽象・還元したものが、物質身体(物質)であると言えよう。
 この視点から、例えば、遺伝子ないしはDNAを見るとどうなるだろうか。それは、精神身体のエッセンスを抽象したものであろう。だから、真相は精神身体情報である。物質科学では、この精神身体性が抜けているのである。つまり、イデア的身体性が抜けているのである。
 この問題もたいへん興味深いがここで留めておこう。


追記1:追加すると、(精神)身体と(脳)神経の違いもこれで説明できるだろう。
 では、病気とは何だろうか。心の病について言うと、それは、ほとんど自明であり、精神身体の精神の病が身体に現われるものである。
 では、風邪とか癌などの「外的」な病気はどうだろうか。それは、精神身体の病気ではあるが、精神身体の皮層の物質身体が病んでいると考えられる。
 ウィルス等の外的原因があるが、しかしながら、精神身体から見ると、なんらかの精神性が基因となり、物質身体に発症するということは考えられるだろう。
 そう、ストレスが基因かもしれないのである。(遺伝子が原因の場合は精神身体性が原因と言うべきである。)
 

追記2:東洋文化の「気」(インドでは、プラーナ)に関して言うと、気的身体は、ほぼ精神身体になるのではないだろうか。
 つまり、「気」はほぼ精神に相当しよう。しかしながら、「気」のより根源には、「魂」や「霊」があるだろう。イデア本体である。
 しかしながら、重要なのは、知性とは、物質身体に伴って生起することである。そして、理性とは、精神的知性のことであるということである。だから、知性と精神の均衡を取るものと言えよう。
 だから、理性とは知恵と呼べるものである。合理性とは異なるのである。それをreasonやratioとするのは、誤りである。reasonやratioは、知性である。だから、直感・直観の方が理性、知恵に近いのである。
 思うに、近代哲学は、知性と理性と直感・直観と悟性で混乱しているだろう。知性=悟性=reason, ratioである。それに対して、Media Pointの知が理性・知恵である。それは、知性と感性の調和する知である。これもここで留めておく。


追記3:追記2の知性等々の用語の弁別であるが、まだ、当然ながら、混乱がある。思うに、知性は、同一性知性=物質知性とMedia Point知性=差異共振知性に分けた方が混乱がなくなるだろう。
 理性も混乱を引き起こす用語である。reasonは、やはり、2つの知性に関係すると思うので、混乱するのである。
 合理性rationalityであるが、それもやはり、2つの知性に関わるだろう。
 だから、知性、理性、合理性、すべて、2つの知性に関わる用語ということになる。
 結局、近代は、連続性(連続的同一性)ないしは同一性主義の文化なので、2つの知性の区別が混乱していると考えられるのである。
 だから、明晰に区別するには、例えば、同一性理性(略して、同一理性:量的理性)と差異理性(略して、差理性:質的理性)に分けるといいのかもしれない。カントの純粋理性は両者が衝突していると言えるだろう(アンチノミー)。
 結局、PS理論によって、この問題が斉合性をもって、解決されると言える。結局、図式化すると、


差異理性⇒同一性理性


である。これは、また、次のように言い換えられる。


超越理性⇒物質理性


近代主義は、右辺を中心化させて、左辺の探究が問題化したと言えよう。
 そして、フッサール現象学は、左辺の探究であったと言えよう。その結果、超越論的主観性、間主観性、生活世界等の概念が生まれたのである。
 ただし、フッサールは超越理性が、差異理性、差異共鳴理性であることを認識できずに、いわば、超越的同一性に留まったと言えよう。